菊花茶

 

「お〜い、天野〜」

「遅いですよ、相沢さん」

 背後からかかる能天気な声に、美汐は少しだけ怒ったような口調で振り向いた。

「悪い悪い、いきなりだったもんでな」

「……仕方がありませんね」

 ここはものみの丘。妖狐伝説が残る、神秘的な場所でもある。この地に残る伝説が、二人を引き合わせたと言っても過言ではない。

「相沢さんは、今日が何の日が御存知ですか?」

「今日?」

 そういわれても祐一にはピンとくるものがない。叔母である秋子の誕生日は二十三日であるし、美汐の誕生日も十二月だ。当然祐一自身の誕生日というわけでもない。

「今日は九月九日、重陽の節句ですよ」

「重陽の節句?」

 聞きなれない言葉に、祐一は訊きかえしてしまう。

「一月七日の七草、三月三日の桃の節句、五月五日の端午の節句、七月七日の七夕に並ぶ五節句のひとつですよ。昔、中国の五行思想では奇数は陽数とされ、大変に縁起の良いものとされていたんです。九は奇数の中でもっとも大きな数字なので、それがふたつ重なるので重陽というのですよ」

「へえ……」

 流石は美汐だな、と祐一は感嘆の声しか出ない。

「昔の暦では菊の花が咲くころにあたるので、菊の節句とも呼ばれていたんですけどね。今は暦が変わったせいか菊の季節からずれてしまったので、廃れてしまった節句なんです」

 そう言って美汐は、少しだけ寂しげな表情を見せるのだった。

「そうか、それでか……」

 美汐の隣に座りつつ、祐一はいそいそと包みを広げる。

「ほい、天野」

「これは……」

 手渡された包みの中を見て、美汐は少しだけ驚いたような声を出した。

「栗ご飯ですね」

「なんか良くわからんが、俺がものみの丘にいくって言ったら、秋子さんがこれを持っていけって」

 重陽の節句は菊の節句と呼ばれるのと同時に、収穫祭の一環として栗の節句と呼ばれることがある。また、重陽の節句には小高い丘に登るという風習もあり、人々はそこで長寿を祈願するのだ。

 確かに、年の初めの無病息災を祈願する七草、女の子の成長を祈願する桃の節句、男の子の成長を祈願する端午の節句、技芸の上達を祈願する七夕と比較しても、長寿を祈願する重陽の節句はかなり地味な印象を受ける。

 九月は他にも敬老の日もあるし、中秋の名月も有名だ。それ以外は特にこれと言った祭りがあるわけでもないので、廃れてしまうのも無理はないだろう。その意味で祐一が知らないのも無理はない。

「やっぱり……」

 ほこほことした栗の感触を楽しみつつ、美汐は口を開いた。

「……あの子たちも忘れ去られてしまうのでしょうか……」

「……どうだろな」

 秋子特製あまり甘くない栗ご飯は、実に祐一好みの味付けだ。とはいえ、あまり一気に口に入れてしまうとむせてしまうのも道理であった。

「大丈夫ですか?」

 そういいつつ美汐が差し出してくれたお茶で喉を潤し、ようやく祐一は難を逃れることができた。

「サンキュ、天野。美味いお茶だったがなんだ?」

「菊花茶ですよ」

 祐一には聞きなれないが、おそらくはハーブティーの一種なのだろう。ポットの中には、琥珀色のお茶に浸かって見事に菊が開いている。

「乾燥させた菊の花弁を煎じたものです。中国では熱さましの効果があって、夏バテ解消にも役立つ飲料として知られています」

「ふ〜ん」

 柔らかな菊の香りは実にすがすがしく、ほのかに感じる甘みがさっぱりとした味わいを醸し出している。祐一にはまるで、美汐の優しさがお茶になったようにも思えた。

 その時、不意に強い風が丘を駆け抜けた。

 いまだ残暑が厳しいが、こうして吹きぬける風は秋の気配を見せはじめており、特に小高い丘の上ではその傾向が顕著であった。

「大丈夫か?」

「は……はい」

 祐一の胸に抱きかかえられるような格好になってしまったためか、美汐の声は上ずり、顔も火照ってきたようだ。

「……さっきのことだけどな」

 そのままの格好を維持しながら、美汐の耳元でそっと囁くように祐一は口を開いた。

「俺は、この丘であったことは絶対に忘れない。天野だって、そうだろ?」

「はい……」

 強くあってくださいとは、かつて美汐が祐一に願った言葉だ。そして、祐一はその言葉を守り、強くあり続けている。

 お互いの吐息がかかるような距離。それこそお互いの心臓の鼓動すらも聞こえてきそうな距離まで二人が近づいた、丁度その時。

「祐一〜、美汐〜」

 ぶんぶかと大きく手を振り回して、丘の上の小道から真琴が駆け下りてきた。

「あれ? 祐一と美汐、アッチッチ?」

「おお、俺と天野はアッチッチだぞ」

「じゃあ、真琴もアッチッチする〜」

 そう言って真琴は大きく両手を広げて、祐一と美汐をいっぺんに抱きしめようとする。

「あらあら」

「真琴ったらあんなにはしゃいじゃって」

 そんな三人の様子を、丘の上から微笑ましく見つめる親子。

「あの……みなさん、どうして?」

「どうしてって……今日は重陽の節句じゃありませんか」

 そう言って穏やかに微笑む秋子。

「だから、みんなでここにピクニックに来たんだよ」

 その隣で、いつもと変わらぬ笑顔の名雪。その手には、しっかりバスケットが握られている。

 この日は家族みんなで丘などの小高い場所に登って菊花茶や菊花酒を飲み、共に不老長寿を祈願する日でもあるのだ。

 

 丘を渡る風が、優しく家族を包み込む。

 伝説の残る丘で、それぞれに永遠を誓い合う。

 そんな秋のひとときであった。

 

 

 

「あう〜……」

「大丈夫か? 真琴」

「もう、食べすぎですよ」

 美汐の膝枕で、苦しいお腹を刺すりながら真琴は呻いていた。

「だってぇ〜、秋子さんの栗ご飯、美味しかったんだもん……」

「はい、真琴。お薬あげるね」

「あう〜……」

「そういえば今日は、救急の日でもありましたね」

 こうして、のどかに時は過ぎていくのだった。

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