奇跡の後に、もう一度

 

「祐一〜っ! お昼休みだよ〜」

「なにぃっ! そうなのかっ?」

「……どうしたの……?」

 突然大きな叫び声をあげる祐一に、名雪が心配そうな表情で訊き返した。よく見るとその瞳には、わずかではあるが憐憫の情が浮かんでいる。

「いや、いつも素で返してたから、たまには大げさに驚いてみようと思っただけだ」

「そうなんだ……」

 それを聞いても名雪は特に気にした様子もなく話を続ける。

「祐一は、お昼ご飯どうするの?」

「……昼か……」

 せっかくボケたのに軽くスルーされてしまい、少しだけ落ち込んでしまう祐一であったが、その表情にはわずかながら焦りの色が浮かんでいた。

「よし、学食行くぞ。名雪」

「そんなに慌てなくても、学食は逃げないよ?」

 名雪は慌てず騒がず、のんびりと自分のカバンから財布を取り出しているところだ。

「いいから急げ! 早くしないと……早くしないと……」

 名雪の手を強引に引っ張り、教室から出ようとしたところで、祐一の肩にポンと手がのせられる。

「どこへ行こうっていうのかしら? 相沢君」

「か……香里……?」

「あ、香里〜」

 顔面蒼白になった祐一の顔と、満面の笑顔を浮かべる名雪の顔は、見るからに好対照だった。

「祐一さん!」

 するとそこに、明るい元気な声が響き渡る。

「お弁当作ってきました」

「し……栞……」

 得意げに小さな胸を張り、大きな包みを差し出す少女の姿に目眩がするのを感じる祐一。これぞまさしく前門の虎、後門の狼である。

「ナイスタイミングよ、栞。じゃあ早速行きましょうか」

「そうですね、中庭なんかどうでしょう?」

「いいわね」

 そのまま二人に両脇を抱えられ、ずるずると引きずられていく祐一の姿を、名雪はただ呆然と見送っていた。

 奇跡が起きた。月並みな表現だが、最も適切であると思われる表現はそれしかない。

 難病を患い、治る見込みがないとされた少女、栞。

 妹を失ってしまう悲しみから逃れるために、妹をいない事にしようとした少女、香里。

 そんな二人の少女と関わり、その仲をうまくまとめた少年が祐一だった。

「どうした? 水瀬」

「あ、北川君」

 ちょうど教室から出てきたばかりの北川と、にこやかにあいさつを交わす名雪。

「は〜、相沢の奴は相変わらずか……」

 香里と栞に引きずられたまま、廊下の角を曲がっていく祐一の姿に、北川は呆れたような息を吐く。祐一達が三年に進級し、病気から回復した栞がもう一度一年生として復学した時から、よく見かけるおなじみの風景だ。

 ほとんど奇跡ともいえる状況の中で、二人が祐一を運命の人と思ってしまうのも無理のない事だろう。なにしろこの姉妹は祐一を巡って仲が悪くなったかと思えば、こうして仲良く祐一を確保したりもする。とりあえず、はたから眺めている分には面白い見世物となっていたのだ。

 

「そういえば、水瀬は平気なのか?」

「なにが?」

 学食へ行く途中、不意に北川が口を開いた。

「相沢の事さ。なんか水瀬とはいつも一緒にいるイメージがあるからな」

「そうだね」

 そう言って名雪は軽く微笑んだ。

「さびしくないって言ったら、ウソになるよ。でも、香里も栞ちゃんも嬉しそうだし、わたしはそっちのほうが嬉しいよ」

 名雪が二年生に進級し、香里と一緒のクラスになれた時は二人して大喜びしたものだ。でも、その翌日から香里の様子はおかしくなった。なにか悩み事を抱えているようなのだが、心配して聞いてみても、気のせいよ、の一言しか返ってこない。

 香里としては余計な心配をかけないようにふるまっていたのだが、名雪としては親友が苦しんでいるのに力になってあげられないのがつらかった。

 そして、その状況は祐一の転校と前後して大きく変化する事となる。そんなわけで名雪は、自分ができなかった事を成し遂げた祐一を誇りに思っているのだ。

「じゃあ、水瀬は席取っておいてくれよ。オレが水瀬の分も買ってきてやるから」

「わかったよ〜。わたし、お留守番してるね」

 学食に着くなり、名雪の注文も聞かずに戦いに向かう北川。やがて名雪が席を確保したころ、二人分のトレイを持った北川が雑踏の中から姿を現す。

「ほい、水瀬。Aランチ」

「ありがとう、北川君」

 丁寧に両手を合わせ、いただきます、と言ってから食べはじめる名雪。その礼儀正しさには、ついつい北川も苦笑してしまう。

 適当に雑談を交わしつつ、昼食を終える二人。教室に戻ると、祐一は自分の席でぐったりとした様子で机に突っ伏していた。

「祐一、大丈夫?」

「……ああ……」

 短くそう答えるものの、祐一の表情は暗い。恐ろしく憔悴しきったその様子は、とてもじゃないが女の子二人と仲良く食事をしたようには見えなかった。

 聞くと祐一は、香里と栞の二人から休む間もなくおかずを差し出され、気分はフォアグラを作るガチョウのようだったという。

「そうなんだ。じゃあ、祐一にお薬あげるね」

 そう言って名雪は制服のポケットから漢方胃腸薬の包みを取り出し、ペットボトルの水と一緒に差しだすのだった。

 

「……と、いうわけなんだよ」

「あらあら」

 夕食の後、キッチンで洗い物を手伝っていた名雪は、今日あった出来事を秋子に話していた。母と娘の二人暮らしで、いつの間にか日課となってしまったこのひと時。事情を聞いた秋子は、今日の夕飯の盛り付けを名雪が祐一の分だけ少なめにした理由がよくわかった。

「祐一さんも大変ねぇ」

「そうだね」

 のほほんとした娘の笑顔を眺めつつ、秋子は内心溜息をつく。わが娘ながら、この覇気の無さはなんなのだろうか、と。

 名雪が祐一に好意を抱いている事は、秋子もよく知っている。七年ぶりに祐一がこの街に帰ってくると聞いた時から、妙に落ち着きがなくなった娘の様子を見ていれば、おのずとわかる事だ。

 それに祐一が同居するという事になれば、名雪も多少はいいところを見せようと頑張ってくれるかもしれないという期待もあったのであるが、全く飾っていない普段の自分を祐一に見せていたため、良い意味で裏切られてしまったのである。

「どうしたらいいかな、お母さん」

「そうねぇ……」

 不安げな表情を浮かべる名雪を後ろから抱きしめつつ、秋子は娘を安心させるようにいつもの笑顔で微笑みかけた。

「とりあえず、この件はお母さんに任せてくれないかしら?」

 

「あの……秋子さん……?」

「はい。なんですか? 祐一さん」

「俺はなんでこんなところにいるんでしょうか?」

「なんでって……。祐一さんは審査員なのですから、ここにいるのは当然ですよ?」

 さわやかに晴れ渡ったとある日曜日。祐一は家の近所にある市民公園にやってきていた。

 普段は家族連れでにぎわう公園にはなぜか特設ステージが設けられており、壇上ではメイド服姿の美坂姉妹がギャラリーに愛想笑いをふりまいている。

 メイド服姿の香里はさすがの領域で、見事な着こなしで周囲の視線を集めており、一方の栞はというと、着せられている感のあるメイド服の初々しさが際立っていた。

 ギャラリーのざわめきを最高潮となった時、一人の男が壇上に立つ。

「みんな〜っ! 萌えているか〜っ?」

 その男、北川の叫びにギャラリーの男達の間から『うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!』という叫びが巻き起こる。

「にゅーよーくで、イキたいかーっ!」

「うおぉぉぉぉぉぉぉっ!」

「バツゲームは、怖く……」

「いい加減にしなさいよ」

「バ……バツゲームがあるんですか?」

 底冷えのするような瞳で北川を睨みつける香里と、バツゲームという言葉に心底おびえている栞の姿は見るからに好対照だった。途端にあたりに立ちこめる殺気を振り払うように、マイクを持ち直した北川は高らかに宣言する。

「今日、この場に集まってもらったのは他でもない。美坂香里と美坂栞、この二人のどっちが相沢の恋人にふさわしいかを決めるためだ。題して『どっちが相沢の恋人にふさわしいか、とっとと決めちゃおうぜ大会』の開幕だ〜。詳しいルールの説明は、大会企画者である水瀬秋子さんにやってもらう」

「只今ご紹介にあずかりました、水瀬秋子です」

 北川からマイクを受け取り、秋子はギャラリーに向かって軽く一礼する。

「審査の方法はこれから三つの競技を行い、いかにして祐一さんの満足を得るかによって決定します。なお、今回の競技には特別ゲストを用意しました」

 秋子が紹介すると、舞台のそでのほうから一人の少女が姿を現した。

「な……名雪……」

 メイド服姿の名雪が壇上に立つと、ギャラリーから感嘆ともいえるざわめきがはしる。舞台に立つ香里と栞の二人も唖然呆然という風情であるし、なにより祐一は普段とは違う雰囲気の名雪から目が離せずにいた。

「……あんまりじろじろ見ないでよ……」

「あ……ごめん……」

 そのまま真っ赤になってうつむいてしまう祐一と名雪。その初々しさには秋子からも笑みがこぼれてしまう。

「それでは最初の勝負は料理対決です。制限時間九〇分で祐一さんを満足させる料理を作った人が勝ちになります。名づけて『ドキッ! 彼氏のためのお料理勝負。デザートはわ・た・し』です」

 意外とネーミングセンスのない秋子に、祐一は少しだけ頭が痛くなるのを感じた。

「負けませんよ、お姉ちゃん」

「あら、あたしに勝てると思ってるの?」

「みんな〜、ふぁいと、だよ」

 多少ずれているのが約一名混じっているが、三人の少女はそれぞれ用意された食材に向かう。これらの食材は商店街にあるお店の好意によって用意されたもので、これだけあれば結構いろいろな料理が作れそうだった。

 香里が作る料理は肉じゃが。独身男性を一撃でノックアウトするこのアイテムを選んだのは、実に香里らしいといえる。

 対する栞が選んだ料理はポトフ。これは使用する食材は単純であるが、おいしく作るのはそれなりに大変な料理なのだ。

「栞ちゃん、材料は大きさを揃えて切らないと、火の通りが悪くなっちゃうよ?」

「え? そうなんですか?」

「香里、お鍋吹いてるっ!」

「えっ? うそっ!」

 香里と栞が失敗するたびに、素早く名雪のフォローが入る。そのせいか二人の手際がかなり危なっかしいものの、なんとか普通に出来上がっていく。

「いい? 二人とも、こういう鍋料理には奥の手があるんだよ」

 そう言って名雪がにこやかに取り出したのは、一枚の毛布。

「それをどうするのよ? 名雪」

 こういう鍋料理は、基本的に弱火でじっくりコトコトクツクツ煮込むのが定番だ。ところが、名雪は二人の鍋がある程度まで温まり、アクを取ったところで火からおろしてしまったのだ。

「こうするんだよ」

 名雪は二人のお鍋にアク取りのシートをかぶせると、蓋を閉めて毛布でしっかり包み込む。

「これで、おっけー」

「あの、それのどこがおっけーなんですか?」

 栞がおずおずとした様子で訊く。どうも栞には、名雪が異常な行動をしているようにしか見えないのだ。いきなりお鍋を毛布で包んでどうしようというんだろうか。

「制限時間はあと三十分くらい残ってたよね? その間にも焦げ付いたりしないようにかき混ぜたり、火加減とかいろいろ考えたりしないといけないし、ガスだってもったいないよ」

 妙に庶民的な話しである。

「こうやって毛布でくるむと熱が中にこもるから、じっくり煮込みたいときにはこうするのが一番なんだよ」

 時間をおいてしまうと冷めてしまうが、それを温めなおすと一晩おいたカレーと同じ効果をもたらすのだ。

 やがて二人の料理が出来上がり、あたりにはいいにおいが立ち込める事となる。

「さあっ! 相沢君」

「さあっ! 祐一さん」

 ほこほこと湯気の立つ肉じゃがと、熱々のポトフがずずいと祐一の前にさしだされる。

 どちらもいいにおいがして食欲をそそるのであるが、祐一の悩みは深い。それは、どちらの料理を先に食べるかという事だ。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず。ある意味祐一の優柔不断さが浮き彫りになったといえる状況である。

「そんなに悩まなくていいよ。まずは香里のほうから試食してあげて」

 名雪にそう言われて祐一は、香里の皿に手を伸ばす。

 味付けは少し濃いようにも感じるが、このくらいなら祐一にも合格点だ。硬くなりがちなニンジンも良く煮込まれているし、なによりタレがよく染みこんだじゃがいもとしらたきの食感が絶妙であった。

 肉は余計な脂が抜けており、あっさりとした味わいが楽しめる。これなら文句なしと言いたげに、全部食べきる祐一であった。

 続いて栞のポトフを手に取る祐一であるが、先程まで温かな湯気を立てていたものがすっかり冷めてしまっている。

 しかし、一口食べた祐一はその味の深さに驚いた。冷めてしまう事で、逆に素材の持ち味が十全に楽しめる料理となっていたのだ。香里の作った肉じゃがも良い出来栄えであったが、肉と野菜が混然一体となったこのポトフも負けてはいない。

 ポトフに使う肉は安いモモやスネの固い部分であるが、これもよく煮込まれる事で実に柔らかくなっている。おまけにあっさりとした味わいは、実に祐一好みだった。

 祐一の満足げな表情に、姉妹はそろってニヤソと笑う。実のところ料理勝負という形では、二人がかりでも名雪には太刀打ちできないだろう。そこで名雪の料理を祐一が食べられないように、二人で先に満腹にさせてしまおうという作戦だったのだ。

 ところが、あたりに焼いたシャケのいいにおいが漂い、名雪がお茶漬けの入ったお茶碗を持って現れた時、状況が一変した。

「はい、祐一」

「おお」

 名雪から差し出された鮭茶漬けを受け取った祐一は、ものすごい勢いで食べはじめた。先程までもう食えないと思っていたのに、不思議な優しさのあるあっさりとした味わいのせいか、いくらでも食べられそうだ。

「名雪、おかわり」

「はいはい」

 穏やかに微笑んでおかわりを用意する名雪。勝負の行方は、だれが見ても明らかだった。

 

「次の試合はお洗濯ですが、流石に今から洗ったりする時間もありませんので、いかに手際よく洗濯物を干せるかによって審査します。名づけて『ドキッ! 彼氏のためにお洗濯。健気な私を見て』です」

 三人の前にはそれぞれ洗濯かごが置かれている。

「それでは、用意スタート!」

「さっ」

「えうっ」

 スタートと同時に香里が隣にいた栞に足払いをかけたため、豪快に転んでしまった栞は洗濯かごから洗濯物を盛大にぶちまけてしまう。

「ず……ずるいですよ、お姉ちゃん」

「甘いわね、栞。勝負は非情なものなのよ」

「栞ちゃん、大丈夫?」

 洗濯物を拾うのを名雪が手伝っている間に、香里は悠々と物干し台にたどりつく。そして、香里と栞が洗濯物を手にした途端。

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 同時に悲鳴が上がった。

「秋子さん、あれはもしかして……」

「祐一さんのパンツです」

 その言葉に祐一のあごは、かくん、と地面まで落ちる。

「……秋子さん……?」

「祐一さんのパンツです」

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 真っ赤な顔で叫びながら、舞台に駆け上がろうとする祐一。

「いけませんね。皆さん、出番ですよ」

 慌てず騒がず、秋子がポンポンと手を叩くと。

「イーッ!」

 どこからともなく全身黒ずくめの集団が現れ、祐一を磔にしっかり固定する。

「あ……秋子さん、この人達は一体……?」

「うちの社員の人達です」

「イーッ!」

「なんの仕事なんですか?」

「企業秘密です」

「イーッ!」

 祐一と秋子がそんなやり取りをしている間中、香里と栞は祐一のパンツを干すのに四苦八苦し。

「〜♪」

 そんな中でハミングしながら祐一のパンツを干している、名雪の手際の良さだけが目立っていた。

 

「さあ、いよいよ最後の試合になりました。最後の審査はお掃除です」

 秋子が宣言すると、壇上に三つの部屋が現れる。

「このお部屋は祐一さんのお部屋そっくりになるように作られたもので、家具などのレイアウトもそのまんまです」

 扉を開けると、そこには見慣れた祐一の部屋の風景がある。

「今から三人には制限時間三〇分でこのお部屋の掃除をしていただきます。手際よく祐一さんを満足させるように掃除できるかが審査のポイントですよ」

 三人はそれぞれ部屋へと入る。

「それでは、私達はこちらのモニター画面で三人の様子を拝見しましょう」

 最初に画面に現れたのは香里。才色兼備を地で行くイメージがあるせいか、その手際はかなりいい。しかし、机の上に置かれた雑誌を手にした途端、その表情は般若の如く変化した。

「あの……秋子さん。あれは、もしかして……」

 そのとき、画面に大写しになったのは、ロリフェイスで巨乳なメイドさんの年齢制限がある本だった。

「祐一さんのお部屋にありましたよ? この試合は名づけて『ドキッ! 彼氏のお部屋をお掃除してたらエッチな本が』です」

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 祐一は叫ぶが、しっかり磔にされた状態では全く身動きが取れない。そうしている間にも香里は部屋のあちこちから祐一の秘蔵本を見つけだしている。そして、香里は祐一の秘蔵本をすべてゴミとして一つにまとめ、文字通りに完璧な掃除を終えるのだった。

 次に画面に映し出されたのは栞。やはり彼女も祐一の秘蔵本を見るが、香里とは少し様子が異なった。栞は呆然とその本を見ると、おもむろに自分の胸に手を伸ばし、落胆ともとれる溜息をついた。

 その栞の行動に共感したのか、ギャラリーにいた女の子達の間から同じようなため息が漏れる。そして、栞は掃除もそこそこに部屋を出てしまうのだった。

 最後は名雪。彼女もほかの二人と同じように祐一の秘蔵本を見るが、特になにをするというわけでもなかった。ただ、名雪は母親のような笑顔を浮かべ、それを見なかった事にして掃除を終えた。

「どうしました? 祐一さん」

「いえ……」

 普段同じ家で暮らしているのだから、祐一の部屋にああいう本が置いてある事は、当然秋子さんは知っている。だけど、名雪だって祐一の部屋を掃除する事もあるのだから、知っていたとしても不思議ではない。その意味ではこうやって見なかった事にしてくれる名雪の優しさが、祐一にとってはたまらなく嬉しいものに感じられた。

 このときに祐一ははっきりとわかった。今までずっとそばにいたが故に気がつかなかった、自分の本当の気持ちに。

 

 すべての試合は終わった。どの勝負も、終わってみれば名雪が圧勝に近い結果となった。

「名雪……」

 壇上では勝者を称えるべく、祐一が自分の気持ちを名雪に伝えようとしていた。

「俺は、名雪の事が好きだ。もちろん仲の良いいとことかそういうのじゃなくて、一人の女の子として」

「ええっ? 困るよ」

 すると名雪の表情には、途端に困惑の色が浮かぶ。

「突然そんな事言われても、わたし困るよ……」

「名雪……」

 思えば、いつも名雪と一緒だった。祐一が香里と栞の仲を回復できたといっても、それは名雪の協力無くしては語れない。あの日名雪が香里を百花屋に連れてきてくれなければ、もしかしたら姉妹の和解も成立しなかったかもしれないのだ。

「それに祐一にはもう、栞ちゃんも香里もいるんだよ? 栞ちゃんは可愛いし、香里は美人だし、なんの不満があるの?」

 そもそも名雪は、こういう事はお互いの気持ちが大事だと思っている。祐一が栞の事を大事に思っていなければ、奇跡も起らなかっただろう。それに名雪としては、親友である香里を応援したい気持ちもある。

「ずっと昔だったら嬉しかったけど、今頃になってそんな事言われても、わたし困っちゃうよ」

「……まさかとは思うがお前、他に好きなやつがいるとか……?」

「うん」

 先程からなんとかうまく断ろうとしているかのような名雪の態度を疑問に思った祐一が訊いてみると、実に素直な反応が返ってくる。

「わたし、北川君の事が好きなの」

「えっ? オレ?」

 突然の名雪の告白に、北川は驚きの声を上げた。

「だって北川君、わたしがつらい時や苦しい時、いつもそばにいてくれたし」

 祐一は自分の事なんか放ったらかしで他の女の子に夢中だし、そんな状態が長く続けば愛想だって尽きる。もともと名雪は祐一に振られているのだし、今更そんな古い話を蒸し返す気もなかったのだ。

 名雪はただ、祐一が幸せでありさえすればいいと思っていたのである。そんな名雪と似たような境遇である北川が、お互いに惹かれあったとしても不思議はない。

「ごめんね、北川君には迷惑かもしれないけど。これが今のわたしの本当の気持ちだから」

「迷惑だなんて……」

 北川はさっと駆け寄ると、名雪の手をしっかりと握った。

「水瀬がオレの事、そういう風に見てくれていたなんてとても嬉しいよ。だからオレからも言わせてくれ」

 北川は名雪の瞳を見つめると、しっかりとした声で言った。

「オレも水瀬の事が好きだ。だから、よかったらオレと付き合ってほしい」

「もちろん、おっけーだよ」

 唐突に成立したカップルに、祐一はただ呆然と成り行きを見ているだけだった。それを見ていた美坂姉妹はお互いの顔を見合わせると、新たなる決意を秘めた瞳で祐一を見る。

「勝負は、これからみたいね」

「はい、負けませんよお姉ちゃん」

 かくして祐一は失恋し、三人の恋の勝負は仕切り直しとなる。一つの戦いが終わっても、祐一の苦難はまだまだ続きそうであった。

 

「いってきま〜す」

「はい、いってらっしゃい」

 その翌日、元気良く学校に向かう名雪を秋子が玄関で見送った頃、目を覚ました祐一が一階に降りてくる。

「おはようございます、秋子さん。名雪の奴ずいぶん早いですけど、部活の朝連かなにかですか?」

「おはようございます、祐一さん。いや、あの子は北川さんのところに行くって言ってましたよ」

「北川のところに?」

 昨日の今日でこの変わりようには、祐一も驚きだ。

「でも、いいんですか? 秋子さん」

「なにがですか?」

 まったくわからない、という様子で秋子は首をかしげた。

「名雪の事ですよ。北川なんかで、心配なんじゃないですか?」

 そう言われて秋子は、ああ、とうなずいた。

「名雪が選んだ人ですもの。間違いありませんよ」

「でもですね……」

「祐一さんっ!」

 秋子の強い口調に、一瞬だけ祐一はたじろいでしまう。

「名雪は、祐一さんの恋を応援してあげていたんですよ? その祐一さんが、名雪の恋を応援してあげられないんですか?」

「いや……その……」

「私は、名雪が幸せであれば、それでいいんですから」

 秋子にそうまで言われてしまっては、祐一もなにも言えなくなってしまう。

 

 教訓。

『釣り逃がした魚は大きい』

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