the fox and the dry grapes

 

 その出会いは唐突だった。

 夕飯のおかずを買いに出かけようとしていた秋子に代わって商店街にやってきた祐一は、家を出た時から誰かに後をつけられているような気がしていた。

 スーパーで適当に総菜を見つくろって外へ出ると、目の前にそいつが現れたのだ。おそらく祐一を待ち伏せていたのだろう。

「誰だ? お前は……」

 祐一に用事があるようなので、少なくとも知らない相手という事もないと思われる。とはいえ、昨日今日知り合った相手であるようには思えないし、親しい間柄というわけでもないようである。それなのに、なぜだか祐一には知っている相手のように思えたのだった。

「おまえか? 俺をずっとつけていたのは」

「……やっと見つけた……」

 全身をぼろぼろの毛布で覆っていたために顔が誰かはわからなかったが、声を聞いてみると意外にもその正体は女の子のようだ。

「あなただけは、許さないから」

 少女はおもむろに纏っていた毛布を投げ捨てる。すると、その下から姿を現したのはまっぱの女の子だったので、相手が顔見知りかどうかを確認するよりも早く祐一の目は下に向かってしまう。悲しい男のサガだ。

「あ、あう〜っ!」

 自分の格好に気がついたのか、少女は大きな悲鳴をあげると同時に再び毛布に包まると、地面にへたり込んで大粒の涙をこぼしはじめる。

 夕飯前の買い物でにぎわう商店街を、行きかう人達の視線が痛い。とはいえ、状況からすると祐一がまるでこの女の子になにかしたようでもあった。それもそのはずで、毛布一枚身に纏ったままで泣きじゃくる少女を目の前にして、誰が祐一を被害者であると思ってくれようか。こうなってしまうと、無関係を装ってさわやかな笑顔と一緒に退散するというわけにもいかない。

 さて、どうするかと祐一が思案しはじめたちょうどその時。

「ああ、そこの君」

 祐一の肩に、ポン、と手が置かれる。

「悪いが、ちょっと事情を聴かせてもらえないかな?」

 振り向くとそこにはさわやかな笑顔の警察官が立っていた。こうなってしまうと、もはや穏便にすみそうな状況ではない事を悟る祐一だった。

 

「祐一、遅いね……」

 所変わってここは水瀬家。居間でテレビを眺めつつ、なかなか帰ってこない祐一を名雪は心配していた。やっぱり一緒に買い物に行けばよかったかな、と思うのだが、今となっては後の祭だった。

「そうねぇ……」

 夕飯の支度を終えてキッチンから姿を現した秋子も、心配そうに居間の時計を見る。後は祐一がおかずを買って帰ってくればいいだけなのだが、いくらなんでも遅すぎた。

「お腹すいたよぅ……」

 そう呟いて名雪が居間のテーブルに突っ伏したとき、電話が鳴り響いた。

「あ、お母さん。わたしが出るよ」

 もしかしたら、祐一かもしれない。そう思った名雪は急いで電話に出る。

「はい、もしもし水瀬です。はい……。はい?」

 突如としてかかってきた電話の内容に、耳を澄ませる名雪。

「はい、はい、わかりました……」

「どうしたの? 名雪」

 やがて電話を置いた名雪の変わりように、秋子は心配そうに声をかけた。

「お母さん……」

 名雪はなにやら非常に困ったような視線を秋子に向ける。

「祐一が……警察に捕まっちゃったって……」

 

 とるものもとりあえず名雪達が商店街の交番に駆けつけて見ると、祐一は警察官を相手に激論を繰り広げている。祐一にしてみれば全く身に覚えのない事であるし、我が身の潔白を証明するためには必死にならざるをえないところだ。しかし、裸で泣きじゃくる少女が相手では、全くと言っていいほどに説得力がないのも事実である。そして、この光景を見た誰もが、少女の味方をするのは自明の理であった。

「だから、俺は無関係なんですってばっ!」

「なにを言うか、この小僧が。しらを切るのもいいかげんにしろっ!」

 このような具合で両者の主張は平行線を辿ってしまったので、保護者の登場となったのである。

「あの……」

「あ、これは水瀬さん。申し訳ありません、わざわざご足労を……」

 祐一の時とは全く違う緊張した様子で、その警察官は秋子に対して敬礼をした。よく見るとその頬は妙に赤く染まっているようだ。

「一体、何があったの? 祐一」

 電話で一応かいつまんだ話は聞いている名雪であったが、どうしても直接本人の口から事情を聞いておきたかったのである。

「どうもうこうもうあるか」

 まるでアメリカ人のような手振りで大きく両手を広げると、祐一はあやしげな手振りを交えながら事情を説明した。

「こいつがいきなり姿を現して、突然俺に襲いかかってきたと思ったら、相手が裸の女の子だったというわけで……」

「祐一、端折りすぎてない?」

 名雪の疑問ももっともであった。とはいえ、祐一自身にもそれ以上の事情は知らないのであるのだから、それ以上の説明はしようがなかった。

「きっかけとかはあるんじゃないの? 知らないうちに迷惑かけたとか、肩がぶつかったとか……」

「それが全く思い当たらないから、辟易してるんですよ」

 秋子の問いかけも確かにその通りであるが、だからと言って女の子が毛布一枚に包まったまま、裸で出歩いているのは不自然だ。そうなってしまうと、警察官が祐一に対して抱いている疑念が真実味を帯びてきてしまう。

「顔に覚えとかないの?」

「あったら殴り返してますよ」

「女の子に手をあげちゃダメだよ」

 祐一の主義では人に迷惑をかけるようなやつは男女問わずにお仕置きなのだ。

「きっと、この子なりの理由があるのよ」

 そう言って秋子は穏やかに微笑む。

「そうでしょうけど、きっとこいつの勘違いですよ。顔が似てるとか、声が似てるとかの」

 何らかの事情がこの少女にある事は祐一もわかっている。しかし、話を聞こうにも少女は泣きじゃくるばかりで、全く要領を得なかったのだ。そうなってしまうと必然的に、祐一の立場がどんどん悪くなっていってしまう。

「誤解があるなら、誤解を解いてあげる。そうすれば謝ってもくれるし、解決だってするでしょう?」

「そうだといいんですけどね……」

「誤解どころか、祐一のとんでもない過去が暴かれちゃったりして……」

 場の空気を全く読まない名雪の言葉が、あたりの気温を一気に下げる。実はこれこそが、先程から警察官が祐一に聞きたい事だったのだ。

「やはりか、貴様。この少女に一体なにをしたんだ?」

「それは誤解だっ! 俺はこの通り、平々凡々たる慎ましい人生を送っている一般人だっ!」

 とはいうものの、昔の事をほとんど覚えていない祐一ではあるが。

「とにかく、今日はもう遅いし帰るぞ」

「この子はどうするの?」

「放っておけば勝手に自分の家に帰るだろ? それに家出少女と迷子の保護は警察の仕事だ」

 そう言って立ち上がった祐一の服を、少女は必死につかんで引きとめる。

「生憎だが、小僧。警察の仕事は民事不介入が原則なんだ。痴話げんかの後始末までフォローしちゃいない」

「じゃあ、なんのための警察なんだよっ!」

「善良な一般市民の安全を守るための警察だよ」

 そう言って、警察官はかけていた銀縁の眼鏡を、くい、と押し上げる。

「……俺が、善良な一般市民じゃないってか?」

「貴様が……?」

 その警察官は少女を慈しむような眼で見た後、祐一を睨みつける。

「このようないたいけな少女を毒牙にかける貴様が、善良な一般市民だと?」

「くっ……」

 祐一からすれば完全に誤解なのだが、外から見れば無関係とは到底思えなかった。

「困ったわね……」

「ん〜」

 秋子はいつもの様子で左手を頬に当てており、名雪はなにかを思案するように顎に手をあてていた。やがて名雪はゆっくりと少女のそばに行くと、優しく問いかけた。

「お家に来る?」

 その言葉に少女は、泣くのをやめてまじまじと名雪の笑顔を見る。

「お母さん」

「了承」

「そうしていただけると、本官としても助かります」

 秋子の人柄はこの街ではよく知られているし、相手が誰であれ心配はいらないだろう。それにこの少女は、祐一となんらかの関わりがあるらしい。事情を聞くには警察の雰囲気よりも、家に連れて帰るのが手っ取り早いようにも思われた。

「おう、そうだ。ちょっと待て、小僧」

「なんだよ」

 秋子と名雪、少女に続いて帰ろうとした祐一を警察官は呼びとめた。

「今回は初犯だから大目に見てやるが、もし今度似たような真似をして見ろ? 事情がどうあれ、貴様をブタ箱に叩きこんでやるからな」

 脅しとも警告ともとれる警察官の言葉を背中に、祐一は家路につくのだった。

 

 このようにしてはじまった謎の少女、沢渡真琴との奇妙な同居生活は、祐一にとっては後悔と災難を与えるものだった。なんとか事情を聞こうにも、真琴は自分の名前以外の記憶を失ってしまっているらしい。その事が祐一には作り話めいて聞こえるのだが、秋子と名雪が真琴に対して同情的になっているせいか、あまり強くも言えない。この女狐が、と思わなくもないが、居候という祐一の立場はあまりにも弱いのだ。

 しかし、真琴が祐一に対してなんらかの事情を抱えているのは事実らしく、当分の間はこのままでいるしかないのだった。

 そして、真琴との共同生活が一週間ほど過ぎたそんなある日。

「あれ?」

 廊下を掃除していた祐一は、校門付近に佇む一人の少女の姿を見つけた。

「何やってるんだ、あいつは……」

 あんなところで真琴が何をしているのか不思議に思った祐一は、すぐそばで同じように窓の外を見ている少女に気がついた。

「あの……」

 襟足の部分が軽くカールしたあずき色のショートヘアの少女は、その表情と同じく感情に乏しい声で祐一に話しかけてきた。制服のリボンの色からすると下級生のようであるため、少なくとも祐一の知っている相手というわけでもなさそうだ。

「あの子は……あなたのお知り合いでしょうか?」

「あの子というのが、あそこの校門の所にいる女の子だと言うならそうだ」

「そうですか……」

 祐一がそう答えると、その少女は少しだけ嬉しそうな表情をのぞかせた。

「あなたを、待っているのでしょうか?」

「たぶんな」

 祐一がそう答えると、その少女の表情が少しだけ柔らかくなる。元々の顔立ちが悪くないせいか、こうしたわずかな変化でも可愛く見えた。

「……いい子そうですね」

「ああ、いい子だよ。ちょっと不器用ではあるけどな」

 その時に祐一は、不意にある事に気がついた。

「もしかして、君はあいつの事を知っているのか?」

 その問いかけに少女は答えず、すっと踵を返して廊下の奥へ歩いていく。そして、階段にさしかかるとそのまま階下へ消えていった。別れの挨拶がなかったので戻ってくるかと祐一は思っていたが、しばらく待っていても少女が帰ってくる様子はない。悪い子ではないようなのだが、他の女の子とは違う雰囲気を持つ不思議な子に見える。

 せめて名前くらいは訊いておくべきだったかと、少しだけ後悔する祐一であった。記憶が戻らない、親しい友人も作れない真琴の、何か手掛かりになるかもしれないと思ったからだ。

 真琴の面倒を見るようになってから秋子は、ずっと親御さんの捜索を行っていた。ところが、警察にもそのような届けは出ておらず、どうにも捜索のしようがなくなっていたからだ。最初は真琴の記憶喪失を疑ってかかっていた祐一であったが、流石にそうした境遇を聞いてしまうと気の毒に思えてきてしまう。

 記憶が戻るまでは家に置いておくという秋子には、祐一も賛成だった。

 

「沢渡真琴か……」

 その夜、祐一はふとその名前を呟いてみる。まどろみの中の意識が、なにかを導いてくれたのだろうか。祐一は夢の中にいるような漠然とした意識の中で、なんの根拠もなしに古い記憶の中に漂っていた。そこに確かにあった名前の響きは、僅かに胸が躍るような感覚と、少しだけ痛みを伴うような感覚のはざまにあるような微妙な色彩に彩られていた。

 沢渡真琴というのはまだ祐一が小学生だった頃、その時に恋い焦がれていた女性の名前だったからだ。しかし、その女性は当時の祐一からしてみれば三つも四つも年の離れた上級生で、話をした事もないような高嶺の花のような存在だ。当然相手が祐一の事を知っているはずもなく、今の真琴とは何の関係もないはずだ。

 で、あるにもかかわらず、このとき祐一は自分と真琴の関係が一つの糸でつながっていくような感覚に興奮していた。

 とはいえ、真琴が彼女本人であるという可能性や、その知人の記憶が取り違えられているという可能性は即座に否定されてしまう。なぜなら、祐一自身はこの恋心を誰にも話しておらず、ましてや遠くから眺めていただけの彼女がその気持ちを知るはずもないからだ。

 その事を知る事が出来る唯一の存在。あの時の祐一の気持ちを知る事が出来たものといえば……。

 そこまで考えた時点で、祐一の意識は急速に闇に引き込まれていった。

 

 翌日の学校は、授業が長引いた挙句に昼休みに突入してしまっていた。祐一は購買の激戦に乗り遅れてしまった事を悟り、しばらく教室でのんびりと過ごしていた。中途半端な時間に向かうと一番混雑する時間に当たってしまうので、人混みにもまれて辟易するばかりとなってしまう。それで手に入れられるものは変わらないのだし、得する事など何一つとしてないからだ。

 教室を出た祐一は、購買の混雑を避けるためにわざと普段は登下校時にしか通らない階段を使って一階へ向かう。その途中で、見覚えのある女生徒とすれ違った。祐一の記憶が正しく、校内に似た生徒がいなければ、昨日二言三言ことばをかわした少女に間違いない。

 今日も一人きりで、近くに友達がいる様子もない。祐一は昨日この少女と別れてから、考えていた事があった。

 それはこの少女が、真琴についてなにか知っているのではないか、という事だ。少なくとも昨日の様子では、なにかに気がついていたようだったからだ。そこで祐一はこの偶然に感謝して、彼女に声をかけてみる事にした。

「よぅ」

「……はい」

 突然声をかけられて少女は警戒している様子だったが、振り向いた先にいるのが祐一だと気がつくと表情を緩めた。

「どうしました?」

「ああ、ちょっと話をする時間があるかなって思って」

「今、ですか?」

「できれば今がいいな。昼飯は?」

「いただきました」

「早いんだな」

「小食ですから」

 一緒に食事でもしながらゆっくりと、と祐一は思っていたが、その計画はあっさりご破算となってしまう。そうなってしまうと、祐一は別の段取りをつけなくてはいけなかった。女性を誘うというのは、これはこれで意外と気を使うものである。

「俺は、昼飯がまだだし。学食で話さないか?」

「人が多いところはちょっと……」

「そうか……」

 こう見えてこの少女は意外とガードが固い。

「中庭はどうでしょうか? そこでならお昼ごはんをゆっくりいただいてもいいですよ?」

「そこは、寒いだろ?」

「私は構いません」

 中庭はもう少し暖かい時期ならそこかしこでお弁当を広げる風景が見られるだろうが、今の時期は吹きさらしの風と雪景色に包まれた場所だ。確かにそこなら、誰も人は来ないだろう。

「じゃあ、俺も構わない」

「はい。そうしましょう」

 こうして話してみると、この少女の、はい、という返事には印象的な響きがある。自分は真剣に相手の話を聞いている、それを相手に訴えかけてでもいるようだった。もっとじっくり話してみれば、他にも色々いいところが発見出来そうな、好感のもてる少女だ。

 

「寒いけど、本当にここでいいのか?」

「はい」

 寒風吹きすさぶ中庭で、全く躊躇う様子のない少女の返事には、祐一も覚悟を決めるしかない。よくよく考えてみれば、名雪もこの寒い中をあの制服で過ごしているのである。きっと女子用の制服には、優れた防寒機能があるのだと祐一は思った。とはいえ、実際に自分で着てみて試してみるわけにもいかないが。

「じゃ、座ろうか」

「はい」

 とりあえず、二人は石段の端に腰を落ち着けた。

「じゃあ、名前を教えてもらえると呼びやすいんだけど」

「はい。天野です。天野美汐」

「じゃあ、天野でいいか?」

「はい」

 下級生なので、祐一は遠慮なく呼び捨てにさせてもらう事にした。もっとも、香里のようにいきなり下の名前で呼ぶわけにもいかなかったのであるが。

「俺は相沢祐一」

「はい。では、相沢さん、で」

 相沢先輩、というのではなく、素直に、相沢さん、と呼んでくれる。そんな美汐の様子に好感を抱きつつ、祐一はどう話を切り出すか思いを巡らせていた。

「あのさ、天野。実は俺、最近この学校に転校してきたんだよ」

「そうなんですか?」

「ああ、まだ二週間ぐらいかな? この街に来てから」

「でしたら、このあたりもずいぶんと変わったんじゃありませんか?」

 妙に確信めいた美汐の言葉に、祐一は何か引っかかるものを感じる。

「あれ? 俺が昔こっちに住んでいたって話したっけ?」

「いえ」

「だったら、どうして俺が昔この街に住んでいたってわかったんだ?」

 それは祐一にとって、当然の疑問だ。つい昨日まで面識のなかった少女が、どうしてそんな事を知っているのか。

「相沢さんがあの子と知り合いだとおっしゃったので、そう思っただけですよ」

 しれっと美汐はそう言うが、祐一にとってはますます訳がわからない。

「あいつと知り合いだと、どうして俺が昔ここに住んでいたって事になるんだ?」

 そこが祐一にはわからない事だ。転校してきてからの知り合いだという可能性だってあるし、実際に真琴とはそうして出会ったからだ。

「そうですね……」

 取り立てて反論するわけでもなく、美汐は曖昧な返事をする。その態度は祐一に不思議な子だという印象を、一層深める事になる。それはさておきとして、祐一は話を先に進める事にした。

「もしかして、俺達。昔にあった事があるとか」

「それはありません。昨日までは知らない人でした」

「じゃあ、どうして?」

「相沢さんが、あの子と知り合いだとおっしゃったからです。だから私も安心できたんです」

 話題がループしてしまっているようだが、美汐の話す事はわからない事だらけだ。こうなると祐一も核心に迫らざるをえない。

「さっきも気になってたんだが、天野は真琴の事を知っているのか?」

「いえ」

 しかし、美汐は首を横に振るばかりだ。もしかすると美汐には妄想癖があって、色々と辻褄の合わない事をいう子なのかと祐一は思う。それなら一人でいるのも納得がいくというものだ。しかし、美汐の様子は、少なくとも嘘を言っているようには見えない。

「知りません。それは嘘ではないです」

「その割には、なにか確信しているみたいだけど?」

「はい。確信しています」

 不意に美汐は、真剣な瞳で祐一を見る。

「出会っているはずです。相沢さんとあの子は」

「いつ?」

「ずっと昔です」

 祐一には全く覚えがないが、美汐がそう言うと本当にそうなのではないかという気になってくる。それは躊躇というものを全く知らない美汐の口調が、そうさせるのかもしれない。

「ですが、相沢さんの記憶にはない。そうですね?」

「ああ……」

「当然です……。だって、その時のあの子は……」

 美汐が口を開くたびに、祐一は体の温度が下がってゆくのを感じる。それは寒い中庭にいるからとかそういう感じではなく、むしろ血の気が失せてゆくという感じの方が近い。

「待てっ!」

 何やら不吉なものを感じ、祐一は腕をのばして美汐の言葉を遮った。

「はい」

 言われたとおりに美汐は、そこで言葉を止めた。

「それ以上は言わないでくれ……」

「わかりました」

 美汐が言おうとした内容は、しばらくの間祐一を混乱させるに足る内容だったはずだ。その時祐一は、美汐という少女に関わるべきではなかったと後悔しはじめていた。

 祐一の動揺を的確に誘うような事を口にする美汐。これが美汐の妄想からくる言葉であるならいいが、それ以上の言葉を聞く事が祐一にはとてつもなく恐ろしいものであるように感じられた。

 

 美汐と出会ってから、数日が経過した。その間祐一は廊下で何度か美汐とすれ違う事はあったが、向こうから話しかけてくる事もなかったし、祐一にも二人の間で凍結された話題以外に用事があるというわけでもなかったので、ただそれだけで終わる関係が続いていた。

 あの日以来、祐一は美汐の言葉に触発されるように過去の思い出と対面しつつあった。それはあくまでもそうであるという予感めいたものでしかない、真琴と出会った時の事だ。祐一にしてもそれを受け入れてしまえば、自分が普通の思考の持ち主である事を疑わなくてはいけないため、否定し続けてきただけの事である。

 それこそが祐一の心にわだかまる不吉な予感であり、美汐の言葉を制した理由であった。

 これが単なる祐一の妄想であればどれだけ良い事か。しかし、美汐と出会う事によって、それは一気に現実味を帯びたものとなりはじめていた。

 あの日、別れを告げたはずのアイツ。美汐の言うとおり、確かに祐一は出会っていたのだ。

 そんな幻想的な話が本当にあったとしても、そのきっかけはやはり祐一が作ってしまったものだろうからだ。

 かつて祐一は、ものみの丘と呼ばれる場所で一匹の子狐を助けた。けがを負って走れない状態だったのを、走れるようになるまで傷の手当てをしてやったのだ。

 そのころ祐一は学校の長期休暇で水瀬家に訪れており、そこで世話をしていたほんの半月ばかりの事。やがて祐一の休みが終わって自分の家に帰る事になった時、お別れしたというただそれだけの物語。その時からなにかがはじまっていたとでもいうのだろうか。

「やはり俺は、本当にあいつと出会っていたのかもしれない」

 それからしばらくした昼休み、美汐と肩を並べて中庭に来た祐一は、二人の間で共通する唯一の話題を解凍していた。

「はい」

 いつもの様子の無表情で返事をする美汐。そう返事をするという事は、祐一にとっては受け入れがたい事実を、美汐はすでに受け入れているという事だ。

「それは人ではない。そういう事だな?」

「はい」

 その言葉で、祐一の疑念は一気に信憑性をおびたものとなってきている。そうなるともはや美汐は妄想癖のある狂言者ではなく、祐一にとって信頼のおける相談相手となった。

「一体、なんなんだ? あいつは。なにが目的でこんな事をしているんだ?」

「あの子は、ただ本当に相沢さんに会いに来ただけでしょう。それ以外に理由はないはずです」

「会いに来るって……。会いに来てどうするんだよ」

「会いたかっただけですよ。今、相沢さんは束の間の奇跡の中にいるんです」

「奇跡……?」

 言われてみると、確かにそれくらいの言葉を持ってこないと釣り合わないくらいの状況だ。

「そして、その奇跡とは一瞬のきらめきです。あの子が自らの命と引き換えにして手に入れた、わずかなきらめきなのです。それを知っておいてください」

「それは……自分の命を捨ててまでして、ほんのわずかな時間で俺に会いに来たって言う事か……?」

「私は、そう思います」

「なんなんだよ、それ……」

 真琴がとっている行動と、美汐の言う事には食い違いがあるように感じられた。祐一の見る限りでは、真琴がそんな過酷な運命を背負っているようには感じられなかったからだ。どちらかといえば真琴は、もっとずっと脳天気な感じがする。

「この奇跡の一番の悲劇は、それをあの子が悟っていないという事です」

 美汐は的確に答えを提示した。

「知ってますでしょう? あの子はなにも知らないのです」

 そう言われてみると、確かに真琴は記憶を失っている。それを聞いて祐一は、本当に美汐が何もかも知っているのだと悟る。

「……この奇跡を起こすためには、二つの代償が必要ってわけか。記憶と命……」

「はい」

 祐一は一度深呼吸して、自分を落ち着けるのに精いっぱいだった。美汐にそう言われてみると、確かにここ最近の真琴の様子はおかしい。お箸がうまく持てなくなった。うまく歩く事が出来なくなった。歯磨きが辛いと言って嫌がるようになった。よくよく考えてみれば、思い当たる事だらけだ。それはまるで真琴が、はじめから人間ではなかったかのように。

「訪れる別れは、相沢さんがあの子に情を移しているほどに悲しいものになります。それを覚悟しておいてください」

「どういう事なんだよ。それは……」

「……これ以上、私を巻き込まないでください」

 祐一の問いには答えず、踵を返した美汐は振り返る事なく去っていく。

 そして、真琴は熱を出した。

 

 その後祐一は、美汐と再び話をする機会に恵まれた。意外にもそれは、美汐からの電話だった。

「……あの子は、どうしてますか?」

「色々と変わってしまったよ。天野と話していたころからな」

 何気ない些細な会話であるが、祐一にとっては救われたような気分でいっぱいだった。いつでも祐一は美汐にその事を話したかった。現状を把握しておきたかったからだ。そうしないと不安で不安で仕方がなかったのだ。

「なにかありましたか?」

「真琴は……まるで子供に戻るみたいに色々な事を忘れていってるんだ」

「高熱を出しましたね?」

「ああ」

 やっぱり、という感じで美汐は頷く。

「力を失う時に、発熱するようです」

「それは、予兆、という事なのか?」

「いえ、本来ならそれで終わっていたはずです。ただ、想いが強いだけに、不完全な形で今も居続けているんです」

 だとするなら、予兆はずっと前からはじまっていたのだろう。祐一がそれに気がつかないでいる間に、症状はゆっくりと進行していったのだ。そして、本来ならこの発熱ですべてが終わってしまうはずだった。

 つまり、今の真琴の状態は、想いがいつ終わってしまってもおかしくない状況なのだ。

「二度目を越える事はない、と思ってください」

「そして、どうなるんだ? あいつは……」

「消えます。はじめからいなかったかのように」

 美汐の宣告に、祐一はもはやどうしていいのかわからなかった。一体どうすれば真琴を救ってやる事が出来るのか。そんな祐一を、美汐はじっと黙って見ている。

「なんでもいい、話をしてくれないか?」

「はい。他愛のない昔話ですよ?」

 祐一が先を促すと、美汐は淡々とした口調で話しはじめた。

 ものみの丘には不思議な獣が住んでいる。姿形は狐と同じだが、多くの歳をえた狐は妖狐という物の怪となる。それが姿を現した村落はことごとく災禍に見舞われたため、人々はいつしか妖弧を厄災の象徴として扱うようになっていった。それは現在まで続くおとぎ話。

 美汐の話を要約すると、おおむねそんな感じだった。

「相沢さんは、これから本当につらい目に遭うのですよ」

「天野は……それを経験しているんだな」

 美汐の確信めいた口調から、祐一はそう判断した。

「ただ、あの子を救ってあげる方法がないわけではありません」

「なんだって?」

「私には無理でした。ですが、相沢さんならばあるいは……」

 その方法を聞いた祐一の目が点になる。

「……精……?」

「はい。殿方の、精です」

 聞くと妖孤は男女の営みで男性からエネルギーを得るのだそうだ。おそらくはかつて美汐も祐一と同じ経験をしているのだろう。しかし、女性である美汐には、妖弧を救う術はなかったのだ。

「そのせいで……私はこんなふうになってしまいましたが……。相沢さんは、どうか強くあってくださいね」

「おうっ!」

 感謝の意味も込めて、祐一は大きく返事をした。それはお互いを叱咤するような、力強い響きがあった。

 

 美汐と話してからの真琴は、急に物静かになってしまった。実のところそういう表現も適切ではないくらいに、切迫した状況であると言えた。

 熱に苦しみ、なにかにうなされてでもいるかのような真琴。そんな真琴の姿を、祐一はこれ以上見ていたくはなかった。真琴が求めているのは、人のつながりから生まれるぬくもり。そして、それを与えてやれるのは、祐一しかいないのだから。

「今、楽にしてやるからな、真琴……」

 祐一は自分の服を脱ぎ捨てると、添い寝をするように真琴の布団に入った。そして、真琴のパジャマのボタンをはずそうと、手をかけたちょうどその時。

「真琴、具合はど……う……?」

 氷枕の替えを持って、部屋に入ってきた名雪の目が点になる。それはそうだろう、いとこが裸で熱に苦しむ少女の布団に入っているのだから、驚くなという方が無理だ。

「な……名雪?」

 このとき祐一は、名雪なら事情を話せば理解してくれると思った。たとえそれがどんなに常識はずれな出来事であっても、名雪なら受け止めてくれると信じていた。

 だが、名雪は。

 いつも優しい笑顔を絶やさない、いとこの少女は。

 祐一が考えていた、はるかそれ以上に。

 常識的な存在だった。

「お……お母さぁんっ!」

 

 それから何日か経った後の百花屋。カラン、とドアベルを鳴らし、一人の少女が入ってくる。

「天野さん、ここよ」

 それを見た少女、美坂香里が軽く手をあげて美汐を自分の席に呼ぶ。実はこの二人は演劇部の先輩後輩の間柄なのだ。

「まずは、祝杯といきましょうか」

「はあ……」

 さわやかな笑顔でカップを当ててくる香里の表情とは対照的に、美汐の表情は浮かない様子だった。それもそうだろう。彼女の言った言葉を信じてしまったばかりに、祐一はしばらく警察のお世話になる事になってしまったのだから。

 なんでも聞くところによると、祐一は取り調べの最中に『あれは俺が昔拾った狐で、人間になって会いに来たんだ』とか、訳のわからない事を口走っているらしい。そのせいか警察の方でも祐一の扱いについて、少年院送致よりも精神病院に強制入院させた方がいいのではないかと意見が出てしまったそうだ。

「まさか、こうまでうまくいくとは思わなかったわよ。みんな天野さんのおかげね」

「でも、本当にこれでよかったんでしょうか……?」

「かまう事はないわよ。あたしの名雪に男が近づくなんて許せないわ。しかも名雪と同居するだなんて……」

 汚らわしい、と言わんばかりに香里は身を震わせた。確かに美汐も香里の事を『お姉さま』として敬愛しているし、男性に対しても軽い嫌悪感のようなものを抱いているが、だからといってこれはちょっとやりすぎなのではないかと思う。

「それにしても、あの子が来てくれて本当に助かったわよ。そのおかげで今回の作戦もうまくいったし」

 香里のいうあの子とは、祐一がいう真琴の事だろう。美汐にしてみれば校門のところに立っていたのを遠目で見ただけであったが、その時からなにか不思議な感じがしていた。

「どうしたのよ? 天野さん。まさか、あなたまであんな与太話を信じているわけじゃないでしょうね?」

「いえ。そう言うわけではありませんが……」

 そんなとりとめのない話に二人が花を咲かせていると、カラン、とドアベルが鳴って二人の少女が入ってきた。

「あ、名雪。ここよ〜」

 その姿を見た香里が、二人を自分の席に呼び寄せた。人が多いところは緊張するのだろうか。真琴は名雪の背中にぴったりと身を寄せたまま、とてとてとついてくる。

「大変だったわね、名雪。その子が例の?」

「うん、大変だったよ」

 その時の事を思い出したのか、名雪は小さく息を吐いた。真琴がかかったのは性質の悪いインフルエンザだったらしく、発熱と同時に関節に軽い炎症を引き起こしていたのだった。そのせいでお箸がうまく持てなかったり、うまく歩けなくなったりしてしまったのである。ちなみに、歯磨きは名雪が愛用していたイチゴ味の歯磨き粉が切れていただけだったりする。

 お医者に連れていこうにも真琴の保険証はないし、結局民間療法で治すしかなかったのだ。しかし、まさか祐一が真琴にお医者さんごっこをしようとするなんて、名雪にも予想がつかなかったのであるが。

 結局、真琴の記憶が戻る以外に何の手がかりもないため、秋子が真琴の後見人となる事で身元保証が出来るようになったのであった。

「可愛い子じゃないの」

「あう〜」

 香里は真琴に微笑みかけるが、緊張しているのか真琴は名雪の背中に顔を隠してしまう。それを見た美汐が、不意に立ち上がった。

「はじめまして、天野といいます。天野美汐」

「美汐ちゃんだね。わたしは水瀬名雪、美汐ちゃんの一年先輩だよ、ってリボンの色でわかるよね。それでこっちが……」

「あう〜」

 はじめて見る美汐に緊張しているのか、真琴は名雪の背中から離れようとしない。

「お名前は?」

 それでも美汐は優しく真琴に微笑みかける。その慈愛に満ちた語調は、決して真琴を責めるものではなかった。

「おいで」

 美汐が両手を広げると、真琴は少し迷ってから名雪の背中を出て、その腕の中へとてとてと歩いていく。美汐はその小さな体を優しく抱きしめると、その頭を撫でてあげた。

「そうすると、落ち着くんだよ」

 真琴が家族以外の人と接する姿に、名雪は優しい表情を浮かべたまま静かに声をかける。真琴も気を許している様子で、美汐に身を預けていた。

「ほら、お名前は?」

 再度の問いかけ。だけどそれにも真琴は、あう〜、としか返せずにいる。

「ほら、頑張って。お名前は?」

 根気よく美汐は質問を繰り返す。その口調はずっと穏やかなままだ。

「あぅ〜……ま……」

「ま?」

 やがて小さくだが、真琴の口から言葉が出る。

「まの次は?」

「こ……」

「まこ? まこでいいの?」

 真琴はプルプルと首を横にふる。

「まこ、の続きは?」

「……と」

「と? まこと? 真琴でいいの?」

「あう、真琴」

 真琴が大きく頷く。これで挨拶は終わった。

「いい名前ね、真琴……」

 そう言って、美汐は真琴の体を少し強く抱きしめた。

「お友達からはじめましょうね」

「あう?」

 美汐はご褒美をあげるように、真琴の頭をずっと撫でていた。安らかに微笑みながら。

 そんな二人の姿を見ているうちに、名雪と香里もつられて微笑む。これで二人は、これからどんな事があってもずっと仲の良い親友であり続ける事だろう。自分達がそうであるように。

 

 それは一月という月が終わり、明日からは二月になろうという、そんなある日の出来事だった。

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