セピア色の思い出
「おっ砂糖、ひとさじ。恋の味〜♪」
この日名雪は、なんとも楽しそうな歌声と共に、水瀬家のキッチンを占領していた。
「ふたさじ、みさじ、甘い味〜♪」
と、歌ってはいるものの、名雪の手は砂糖を入れる事無く止まっている。そして、なにやら考え事をするように、眉根を寄せた。
「……祐一、甘いのが苦手だから。お砂糖は控えめにしないとね」
そこで名雪は丁寧に湯煎した普通のスイートチョコに、これまた丁寧に湯煎したビターチョコを混ぜ合わせていく。これによって名雪の作っているチョコは、祐一好みの甘さ控えめに仕上がっているだろう。
少し味見した名雪は、満足そうな笑顔を浮かべるのだった。
「調子はどう? 名雪」
「あ、お母さん」
そこへ祐一を送り出した秋子が、キッチンへ入ってくる。名雪は今一生懸命、祐一に贈るためのチョコを作っている最中だ。そういう女の子の大事なイベントを前に、男である祐一は邪魔なだけだからだ。
「調子は悪くないよ」
「そう? どれどれ?」
そう言いながらも秋子は、名雪が作っている最中のチョコをひとさじ口に運ぶ。カカオのうま味がたっぷりのビターな味わいは、市販のチョコにはない美味しさがある。
「ちょっと苦すぎないかしら?」
「でも、祐一って甘いのが苦手だから。このくらいがちょうどいいのかなって思って」
「そう」
自分の好みを押しつけるのではなく、相手の好みに合わせて味付けする。いつの間にかそういう心遣いが出来る様になった娘の姿に、秋子は嬉しいやら寂しいやら、なんとも複雑な気持ちになってしまった。
「それにしても、バレンタインまであまり日がないのに、今頃作っているなんて……」
「う〜……」
おそらく、祐一に想いを寄せる他の女の子。現在同居しているあゆや真琴のチョコ作りを手伝っていて、自分のチョコ作りが最後になってしまったのだろう。そのなんとも不器用なところに、なんとなく安心する秋子であった。
「バレンタインですか……」
再びチョコ作りに集中する娘の姿を眺めつつ、ふと秋子は昔の事を思い返していた。
「ありがと〜、秋子〜」
「いえいえ、どうしたしまして」
女の子の聖なる日、バレンタインデーを間近に控え、秋子も親友と一緒にチョコ作りに精を出していた。しかし、これを喜んで受け取ってくれる相手がいる親友はともかくとしても、未だ独り身の秋子にとって、このイベントはただ辛いだけだった。
まさか、義理で知り合いの男の子に手作りのチョコを配るわけにもいかないし。
「よかったわね〜、これなら月宮君も喜んでくれるわよ?」
「あああ、秋子〜」
途端に真っ赤になって、ポカポカと秋子を殴りはじめる親友。こういう子供っぽいところが、月宮君の保護欲をそそるんだろうな、と秋子は思う。秋子も普段は親友のそういうところをからかってしまうのだが、今日はなぜかいつもより意地悪をしてしまうのだった。
「そう言えば秋子はチョコ作らないの?」
「作っても、あげる相手がいませんよ」
「え? 秋子は水瀬先輩にあげるんじゃないの?」
「う……」
今度は秋子が言葉に詰まる番だった。
「秋子のお姉さんだって、相沢先輩にあげるんでしょ?」
「それは……そうだけど……」
わが姉ながら、あのラブラブのバカップルぶりは校内でもすでに名物となっている。少し前に鼻歌を歌いつつチョコを用意していた姉の姿を思い出して、それだけで胸やけがしてしまいそうな気分になってしまう秋子。もっとも、これも姉の深い愛情の表れかと思うと、腹を立てるよりも虚しくなってくるのだが。
実のところ、校内で美人姉妹として名高い秋子達と、校内の名物コンビである相沢と水瀬。それに秋子の親友とクラスメイトの月宮を加えた六人組が、秋子達の基本メンバーである。大抵の場合この六人で行動するのが彼らの日常であった。
このうち秋子の姉は相沢とカップルであり、秋子の親友も月宮と仲がいい。そうなると、必然的に余った水瀬と秋子がコンビを組む事になるのだが、秋子としては余りもののカップリングのような気がしてなぜか面白くない。
とはいえ、秋子も水瀬以外の男性と付き合おうとかそういう気持ちもわかないのも事実。その意味で乙女心いうものは、かなり複雑なものであった。
「で、結局秋子はチョコを作らなかったわけだ……」
「う〜……」
その日の夕方、デートより帰ってきた姉の一言に、秋子はなんとも恨めしそうな視線を浮かべる。そうはいっても、実のところ不器用な親友のフォローで、それどころではなかったのだ。
「どうするのよ? バレンタインはもう明日よ?」
正確にはもうバレンタイン当日なのだが、今から作るとなると完全徹夜は免れない。いくら秋子でも、寝不足の表情を浮かべたまま人前に出る勇気はなかった。
「だったら、あたしのを分けてあげましょうか?」
「でも、それじゃ姉さんが……」
「あたしなら大丈夫よ」
そう言って、紙袋いっぱいに入ったチョコの山を見せる秋子の姉。
「まだまだ、い〜っぱいあるんだから」
「姉さん……」
全校公認のバカップル、ここに極まれりというこの感じに、思わず秋子は頭を抱えてしまうのだった。
(でも、そのあとは姉さんに手伝ってもらってなんとかなったんですよね)
あの日の大騒ぎも、今ではもうよい思い出だ。そして今、自分の娘が同じような悩みに直面しているという状況に、なぜだか秋子は嬉しくなってしまう。
(祐一さんには、お世話になっている事ですしね……)
一方の名雪はというと、普段どこかとろくさくて危なっかしいイメージがあると言うのに、意外なまでの手際の良さで最後の仕上げに入っているところだった。この様子だと、秋子の助けはいらないようだ。
(久しぶりに、チョコを手作りしてみるのもいいかもしれませんね)
これを受け取った時、祐一はどんな表情を見せてくれるのだろうか。そんな事を考えていると、ついつい秋子も喜びを抑えきれなくなってしまいそうだ。
セピアに込めた思い出は。
甘くせつなくほろ苦い。
それは秋子が、駆け抜けてきた青春の味。
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