嘘

 

「祐一ーっ!」

 ドタドタとけたたましい足音が鳴り響いた次の瞬間、祐一の部屋の扉が勢いよく開かれた。

「おお、どうした? 真琴」

「どうしたもこうしたもないわよぅっ!」

 きれいに整えられた眉を吊り上げ、真琴はこの部屋の主である祐一を睨みつける。

「なにを怒っているんだが知らんが、真琴。天野が遊びにきているぞ」

「あら、真琴」

「あう、美汐〜」

 先程までの剣幕がどこへやら。美汐の姿を見た途端に真琴はとてとてとその前に歩いて行き、きちんと正座をすると、両手をついてお辞儀をした。

「いらっしゃいませ」

「何度も言うようだが、真琴。おまえのその手は三つ指じゃなくて影絵の狐だからな」

「あ……あぅ?」

 頭の上に疑問符を浮かべながら、真琴は手をわきわきと動かした。

「それよりも真琴。どうかしたのですか? だいぶ怒っているようでしたけど」

「あぅーっ! そうよぅ、そうなのよぅ」

 やっとその事を思い出したと言わんばかりに、真琴は激しく地団太を踏む。

「祐一っ! 真琴に嘘教えたでしょっ!」

「嘘……?」

 その途端に美汐の祐一を見る目が冷たくなる。スッと目が細まり、全身をまとう闘気の冷たさが増す。そのあまりの豹変ぶりには真琴も引いていた。

「真琴になにを教えたんですか? 相沢さん?」

「いや、ほんの冗談のつもりだったんだってば」

「その祐一の冗談で、真琴すっごい恥ずかしい思いしたんだからねっ!」

「まさか……誰かに話したのか? あの話……」

 祐一を睨みつけたまま、真琴は静かにうなずく。

「すっごい笑われたわよ。まこちゃんおもしろ〜い、って」

 その姿が容易に想像でき、思わず頭を抱えてしまう祐一であった。

 

「一体相沢さんは、真琴にどんな嘘を教えたんですか?」

「ことわざの意味を訊かれたんだ」

「ことわざですか?」

「ああ、真琴に『急いては事をし損じる』とは、どんな意味かって聞かれてな」

「なんて答えたんですか?」

「昔のギリシャにセイテっていう人がいたんだ。その人はすごいあわてんぼうな人で、なにをやるにもそそっかしくて失敗していたんだ。それを見た人が『また、セイテが事をし損じてるぞ』って言うようになってな。それであわてて失敗する事を『セイテは事をし損じる』と言うようになったんだ、と……」

「あぅ〜……」

 真琴が恨みがましい目つきで祐一を睨んでいる事から、今の話は本当の事なのだろう。最終的な意味はあっているものの、そこに至るまでの過程がめちゃくちゃであった。

「……まったく、相沢さんという人は……」

 美汐はどこかあきらめにも似た感じの息を吐いた。祐一がこういう人物である事は良く知ってはいるものの、こうして改めて見せつけられると、両肩にズシリと重たいものがのしかかってくるような気がする。

「『ちはやふる』じゃあるまいし……」

「あぅ〜、なにそれ? 美汐〜」

 何気ない一言だったが、どうやらそれは真琴の好奇心をくすぐったようだ。

「真琴は百人一首を知っていますか?」

「あう? 百人一緒?」

「一緒ではなくて一首です。百人一首とは、百人の歌人から短歌を一首選んで集めたものです。お正月のカルタ取りにもつかわれるので、なじみがあると思いますが」

「あぅ〜……」

 流石に元が狐だけあって、真琴にはハードルが高すぎたようだ。

 

「百人一首の中に、在原業平が詠んだ『千早ふる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは』という歌があるんですよ。真琴はこの意味がわかりますか?」

「あ……あう? わかんない……」

「いいですか? 真琴。この千早というのが花魁で、竜田川というのがお相撲さんなんですよ」

 頭に疑問符を浮かべたままの真琴の前で、美汐は歌の意味を説明しはじめた。

「竜田川は将来横綱間違いなしと言われたお相撲さんで、大関に昇進したお祝いもかねて遊郭へ遊びに行ったのです。そこで竜田川は千早という花魁に出会い、ひとめぼれをしてしまったんです」

「それで? 美汐」

 ユウカクとかオイランとかよくわからない単語はあるものの、どうやらラブストーリーらしいので真琴は美汐の話に聞き入っているようだ。

「ところが、千早は『相撲取りは嫌いでありんす』と竜田川をふってしまったんです。それで竜田川は千早の妹分に当たる神代という花魁にも声をかけるのですが、神代も『姉さんの嫌いなものは、わちきも嫌いでありんす』と、竜田川の言う事を聞いてくれない。この失恋が原因で竜田川は相撲の成績がふるわなくなってしまい、横綱になるのをあきらめてしまったんです」

「あう、かわいそう……」

 出会いと別れは縁というが、この竜田川の数奇な運命には真琴も同情してしまっているようだ。

「それで、お相撲さんを廃業して故郷に帰った竜田川は、そこでお豆腐屋さんになったんです」

「どうして竜田川はお豆腐屋さんになったの?」

「竜田川の実家がお豆腐屋さんだったんですよ」

 真琴の疑問に、しれっとした表情で答える美汐。

「竜田川が豆腐屋を継いでから何年かたったある日、ここに一人の女乞食が現れたんです。この女乞食が、かつては花魁だった千早の落ちぶれ果てた姿だったんですよ」

「それで? それで?」

「千早は竜田川に『もう何日もなにも食べていないので、せめてそのおからを分けてください』といったんです。ところが、その女乞食が千早だと気がついた竜田川は『俺はお前のせいで横綱になるのをあきらめたんだ。そんなお前にやるおからはない』と言って突っぱねたんです」

「あぅ〜……」

「こうなってしまったのもみんな自分のせい。世をはかなんだ千早は、近くの川に飛び込んでしまったんですよ」

「水泳でもはじめたの?」

「そうではなくて、水に飛び込んで自殺をしたんです。つまり、千早にふられたので千早ふる。神代も言う事を聞いてくれない竜田川。おからをくれなかったので、水をくぐってしまった。と、言うわけです」

「あぅ〜……」

 しかし、真琴はなぜか釈然としない様子で首をひねっている。

「どうした? 真琴。天野がここまで親切に説明してくれているのに、まだなにかわからない事があるのか?」

「う〜んとね、千早ふる神代も聞かず竜田川からくれないに水くぐる。って、ところまではわかったのよぅ……」

「それで、なにがわからないんだ?」

「最後の『とは』ってなに?」

「『とは』ですか?」

 その質問には、流石の美汐もうろたえてしまっているようだ。

「ああ、その『とは』っていうのはな」

 この質問に答えたのは、なんと祐一であった。

「千早の本名だ」

「本名?」

「千早。つまり、千早太夫というのは彼女の源氏名で、本名がとはって言ったんだ」

 

「それにしても、いいのか? 天野」

「なにがですか?」

 満足したのか、真琴が部屋を出て行ったあとに、祐一は美汐にこっそりと話しかけた。

「さっきの話だ。あれは確か落語のネタだろう?」

 ちなみに、この短歌の実際の意味は『竜田川の川面に映る紅葉の美しさは、神代の時代でも誰も見た事がないだろう』と、言うのが通説となっている。この落語は冒頭の千早ふるが、神代にかかる枕詞である事を知らないと面白みも半減してしまう。だからこそ、この珍解釈が笑いを誘うのだ。

「別にいいんじゃないですか? 嘘も方便というものですよ」

 しかし、美汐は特に気にした様子もなく、穏やかな微笑みを浮かべている。

「これで真琴も、少しは落ちついてくれるといいんですけど」

「……おあとがよろしいようで」

 

 全くの余談だが、後日保育所でこの話を披露した真琴。

 子供達にはわけがわからなかったようだが、ある程度年齢のいった保育士達には大爆笑だったそうな。

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