それは、夏休みも終盤に差し掛かったある日の出来事だった。

『さんさんと降り注ぐ太陽。打ち寄せる潮騒は日ごろのストレスを癒してくれます。夕暮れにそよぐ風が涼しく感じられるようになった、今だからこそご紹介できる魅惑の行楽地情報を一挙公開。夏休み終了直前、夏のバカンス大特集!』

 テレビからは色とりどりの水着を着た女の子がにぎやかに波と戯れる姿や、そうかと思うと今度は木陰のコテージでバーベキューを楽しむ親子連れが映し出されていく。

「……楽しそう」

 リビングの床にぺたりと座り、扇風機の風を一身に受けながら真琴がポツリと呟いた。

「真琴、海行きたかったのかな?」

「つーか、俺達この夏どこにも行ってないぞ」

 そんな真琴の姿を、リビングのソファに座った祐一と、その隣に座って団扇であおいであげていた名雪が微笑ましく見守っていた。

 この身は悲しき受験生。この夏に祐一が出かけたところといえば、図書館と夏季講習ぐらいのものだ。名雪も夏の大会が終わった後は受験勉強に専念せざるを得ず、とてもじゃないがどこかに出かける余裕は皆無であった。

 奇跡のようなあの冬の出来事を体験し、家族が増えた初めての夏。それなのに夏の思い出が一つもないとは、なんとなく情けなさすぎる様な気がする。

 とはいえ、これからどこかへ出かける。ましてや、泊りがけでの旅行など不可能だ。どうしたらいいのか、祐一が思い悩みはじめた丁度その時。

「おそうめん出来たよ〜」

 この日秋子のお手伝いをしていたあゆが、元気よくリビングに駆け込んできた。

「うぐぅ?」

 しかし、リビングに立ち込める重苦しい雰囲気に首を傾げてしまう。

 食い入るようにテレビを見つめる真琴。それを優しく見守る祐一と名雪。そして、テレビから流れる行楽地の映像に、あゆは大体の事情を察するのだった。

「わかりました!」

 なかなかあゆが戻ってこないので、様子を見に来た秋子が高らかに宣言した。

「そう言う事なら、今日のお夕飯はお庭でバーベキューにしましょう」

 

夏の思い出

 

「炭火でバーベキューか、秋子さんも結構本格的なんだな」

 最近では屋外でも使えるよう、ボンベのガスを気化しやすくしたカセットコンロも出回っているが、バーベキューは炭火で焼くのが一番美味しいというのが秋子の持論だ。

 バーベキューの準備のため、近所のホームセンターで炭などの道具を色々と買いこんできた祐一は、同じく色々と花火を買いこんで上機嫌な真琴を見て、思わず深いため息をついてしまう。

「……初めに断っておくが真琴。音の出るやつや打ち上げは禁止だぞ」

「え〜? どうしてよぅ」

「ご近所さんに迷惑だろ?」

 今は夏休みだからそれほどではないにしても、いつもなら毎朝目覚まし時計の大合唱が鳴り響いているのだ。それでも近隣住民から文句が出てこないのは、秋子の人徳のなせる業なのではないかと思うくらいだ。それにただでさえ家族みんなでわいわいと騒ぐのだから、近所迷惑になりそうな事は出来る限り慎まねばならない。

「ただいま〜」

 二人が帰ってくると、いつものように秋子が出迎えてくれる。

「おかえりなさい、二人とも。外は熱かったでしょ?」

「あう〜、真琴のどからからよぅ……」

「冷たい麦茶が用意してありますよ。祐一さんも一息入れたら、コンロの準備をお願いしますね」

 みると庭にはコンロが設置されていた。今晩の食材を買い物に行った名雪とあゆはすでに帰宅しているようで、キッチンからはにぎやかな声が響いてくる。この様子なら、キッチンで祐一が手伝える事はなさそうだ。

 そうなると今晩のために、早いところ炭を熾しておかないといけない。

「よし、いくぞ真琴」

「あ、あう……」

 一息入れた祐一は、さっそく炭の準備に取り掛かる。買ってきたチューブの着火剤のゲルの上に、炭を井桁になるように並べて火をつける。ただそれだけの作業なのだが、なぜか緊張で手が震える。

「今日も大空かけめぐる〜、今日も地球をかけめぐる〜、お〜チャッカマ〜ン」

「なによ、その歌……」

 緊張をほぐす目的で歌ってはみたが、わからなかったのか真琴はジト目で祐一を見た。

「気分だ、気分。気を取り直していくぞ!」

 恐る恐る手を伸ばして火をつけてみるものの、どうも先程と変わった様子には見えない。火がついているというよりは、ゆらゆらとした陽炎がおぼろげに見えるくらいだ。

「ねえ、本当についてるの?」

「わからん」

 こういうアウトドアでの炭熾しなんてやった事がないせいか、祐一にも全く判断がつかない。

「もしかして、それ足りなかったんじゃないの?」

「そうかもしれないな」

 そう言って祐一が着火剤を継ぎ足そうと、チューブを手にした時だった。

「なにをするんですかっ! 祐一さんっ!」

 秋子の鋭い声が飛んだ。

「なにって……火のつきが悪いみたいなんで継ぎ足そうかと……」

「火ならもう充分についています。それに火をつけてからの継ぎ足しは禁止と書いてありませんでしたか?」

「あ……」

 確かに、使用上の注意のところにそう書いてある。しかし、具体的にどうして継ぎ足すのがいけないのかまでは書いていなかった。

 こういうチューブに入った着火剤はメタノールにゲル化剤を混ぜたものがほとんどで、扱いやすくなった半面正しい使い方をしないと思わぬ事故を招く恐れがある。なにしろメタノールは揮発性が高く引火しやすい性質を持つため、こうした着火剤は消防法で引火性固形物として危険物に指定されているくらいだ。

 で、あるにもかかわらず、一般的に市販されている製品では、そうした使用上の注意がきちんと表示されていない事が多い。

 メタノールは燃えるときに薄青色の炎を上げる特徴があり、この色は普通の昼間の光の中では全く見る事が出来ない。なんとなく陽炎が揺らいでいるかな、と思う程度にしか見えないのだ。そのため、火がついてないと思いこんで継ぎ足した際に飛び散った着火剤に気付かず、まわりにいる人の衣服に引火して火傷をする事故が多発している。

 また、祐一が用意したチューブに入った着火剤の場合、継ぎ足す際に勢いよく中身を押し出した結果、気化したメタノールに引火して火炎放射器のようになってしまうばかりか、逆にチューブ内に残った着火剤に引火して爆発事故を起こしてしまう事もある。

 おまけに使用済みの着火剤チューブを普通のプラスチックごみと一緒に出した事で、チューブ内に残った着火剤に引火して焼却炉内での爆発事故を起こしたレアなケースもある。この種の着火剤のチューブは歯磨き粉のチューブと同じ樹脂製であり、高い可燃性によって全部燃えてしまうので証拠が残らないために、しばしば原因不明の爆発事故として報道される。まったくの余談だが、爆発個所から金属片が発見されると使用済みガスライターが原因とされる場合がある。

 まったくの余談だが、メタノールはひと昔前のインディカーレースの燃料にも使用されていた事があり、事故が起きた場合にドライバーは熱いと思ったらすぐにマシンから脱出して転がるよう指示されている。なにしろメタノールは燃えても炎が見えないため、一刻も早く消火するためには転がって消すのが一番手っ取り早い。

 そんな危険なものをインディーカーの燃料に使用していた理由は、火災事故が発生した時に水で消火できるというメリットがあるからだ。これがガソリンとかの石油系の燃料であると、消火には特殊な化学消火剤が必要となる。

 なので、このような着火剤を使用する場合には、安全のためにバケツに入った水をいくつか用意しておくのが重要である。

「いいですか? 祐一さん。それに真琴。正しい使用法をしないと、思わぬ火傷をする場合がありますからね」

 

 そんなこんなで炭に火がつき、いよいよ肉を焼きはじめる段階となる。炭は火がついてすぐよりも、まわりに白い灰が浮かび上がってきたぐらいが頃合いだ。

「あれ? 秋子さんなにしてるんですか?」

 みると秋子は、トングを使って炭をコンロのまわりに配置し、中央の部分を空ける。そして、真ん中の部分にアルミホイルを敷いて、網をかぶせた。

「こうやって炭を置くと、肉が焦げたり燃え上がったりする事がないんですよ」

「ふ〜ん」

 バーベキューをするときに多いのが、肉の脂に引火して大きく燃え上がってしまう事だ。公園などの開けた場所でバーベキューをする場合では笑い話ですむが、住宅が密集した狭い庭では火事の原因ともなりかねない。また、肉から垂れた脂が炭に当たると焦げ付くので、それが煙や臭いの原因となる。

 炭火には遠赤外線効果があるので、炭の上に直接置くよりは少し離した真ん中の位置でじんわりと炙るのが効果的なのだ。

 準備がある程度整ったところで、祐一が火の番となって焼きはじめていく。急な事なので串焼きなどの準備も出来なかったので、スーパーで買ってきた豚の小間切れや牛肉の切り落としがメインなのだが、ジュージューといい音を立てて焼ける肉を見ているとなぜか不思議と心が躍る。

 こういう肉は事前にタレに漬け込んでおくのが一番なのだが、塩胡椒でシンプルに焼き上げるのも味わいがある。小皿にとったタレを後でつけて食べるのもいいが、その場合だとうっかりこぼして服にしみがついてしまう場合もある。基本的にバーベキューは立食で行うため、片手で小皿を持っているとどうしてもバランスが悪くなってしまう。

 しかし、どうしてもタレをつけて食べたい。そんなときに、お勧めの方法がこれだ。

 まず、百円ショップなどでスプレーのヘッド部分を買い、次によく洗った500ミリリットルのペットボトルに焼き肉のタレを入れる。そして、焼いている最中にタレをスプレーする事で、肉にタレの味がつくのである。こうする事によってタレがこぼれる心配もなく、後片付けも容易になるのだ。

「肉ばかりじゃなくて、野菜も食べなきゃだめだよ」

 そう言って名雪は、炭の上に直接玉ねぎやナスなどの野菜を置いていく。こうした野菜類は脂の出る心配がないため、肉を焼きながらでもそのまわりで調理ができるのだ。

「その玉ねぎ、皮むいてないけどいいのか?」

「大丈夫だよ」

 今日はいつもの労いもかねて、秋子も食べる側にまわってもらおうと名雪も張り切っているようだ。買ってきた肉はパックから出して取りやすいようにお皿に並べてあるが、野菜はなんの手もくわえていない丸ごとのままだ。こうしたアウトドアでは普段なら出来ないような料理をするのが醍醐味だが、そのまま丸ごと炭の上に置くという大胆さには祐一も驚きだ。

「よし、焼けたぞ〜」

「祐一〜、真琴にタレのところ頂戴」

「祐一くん、ボクは塩と胡椒のところ」

「はいはい」

 料理用のトングでつまみ、差し出された紙皿に要求どおりに肉を置いていく。

「あふあふ」

「はふはふ」

「火傷するなよ〜」

 途端に舌鼓を打ちはじめる二人の姿に、祐一は思わず目を細める。

「秋子さんはどうしますか?」

「そうですね、塩とタレを半々でお願いします」

 やがて全員に肉がいきわたった辺りで、祐一も肉をほおばりはじめる。やっているのはただの焼き肉パーティなのだが、こうして屋外で楽しんでいるといつもより美味しく感じるから不思議だ。

「そろそろこっちもいいようだね」

 先程丸ごと焼いた玉ねぎを二つに割ると、中はとてもいい具合に焼きあがっていた。

「この玉ねぎは一口食べるとジューシーで、ほっこりとした触感がすごく良くて、とっても美味しいです」

「あう〜、誰の真似よぅ……」

 そんなこんなで準備した肉と野菜を全て食べ終え、もうちょっとなにか欲しいかなと思いはじめた時だった。

「あれ? なにしてるんですか、秋子さん」

「デザートの準備ですよ」

 みると秋子は棒にホットケーキミックスをかけ、くるくるとまわしながら炭火であぶっている。表面が焼きあがると、またホットケーキミックスをかけて同じように焼いていく。それを繰り返していくうちに、いつしかホットケーキミックスは巨大な塊に変貌していた。

「こんなところでしょうか」

 火から下ろした巨大な塊から芯になっている棒を抜き、ナイフで二つに割るとそこには年輪のような模様が出来上がっていた。

「すごい、バームクーヘンになっちゃった……」

 あゆは大きな目をさらに大きくして驚いている。市販されているバームクーヘンと違って年輪模様はまちまちだし、形もすごいいびつであるが、なんとも手作り感満載の焼き菓子の出来上がりだ。

「はい、アイスクリームも出来たよ〜」

「おお、サンキュー名雪」

 アイスも用意しておくとはなかなか気が利くじゃないかと思って小皿を受け取ってみると、僅かに触れた名雪の手は異様なまでに冷たい。

「あれ? お前の手……」

「あ……さっきまでアイスを作っていたからかな……」

 つまり、このアイスクリームも手作りという事だ。

 氷は溶ける際にまわりの熱を吸収する特性があり、塩を混ぜる事によってその反応が促進される。その時に氷を三、塩を一の割合で混ぜると寒剤となり、氷点下二十度にまで下げる事が出来る。

 名雪が用意したのはシンプルなバニラアイスで、金属の筒に牛乳や卵黄、生クリームやバニラビーンズといった材料を入れ、先程の寒剤の上で転がしながら作ったものだ。こうする事によって材料が筒の内側で凍りつき、アイスクリームの出来上がりとなる。

 この手作りアイスを一口食べた途端、あゆと真琴は呆けたような表情のまま動きを止めてしまった。

「ふわぁ……」

「なにこれ……」

 いきなりあゆと真琴がおかしくなったので不審に思った祐一ではあるが、アイスを一口食べた途端にその理由がよくわかった。

「こいつは……」

 この手作りアイスはスーパーやコンビニで売られているアイスと比較しても、はっきりと別次元の美味しさである事がわかる。一般的に市販されているアイスは、それが有名店舗の製品であったとしても、保存を目的として氷点下三十度以下の低温状態に置かれている。そのため、まわりが溶けても芯には固い部分が残ってしまい、それが触感を悪くする原因となる。

 ところが、名雪の作った方法だと下がっても氷点下十度前後であり、まわしながら凍らせていく過程で十分空気を含むため、舌の上でサラリと溶けて硬い感じをのこさないのだ。

 この泡雪を口に含んだかのような触感は、おそらく自他ともに認めるアイスマニアの栞ですら味わった事が無いんじゃないかと思うくらい、実に魅惑的で官能的な味わいであった。

 

 楽しい時間が過ぎ去ると、今度はあまり楽しくない後片付けの時間となる。最近ではアウトドアがブームとなっているようだが、自分で出したごみは自分で持って帰るという最低限のマナーも守れない人が多いと聞く。

 とはいえ、おそらく祐一もそうした場所に行くとその中の一人になってしまうだろう。しかし、自宅の庭だと面倒だかったるい、などとのんきな事を言っていられないのも事実であった。手間を省くためにお皿は使い捨ての紙皿を用意したし、残ったコンロや網は明日片付ける事になっている。

 そこで祐一は、燃え残った炭を一つずつトングでつまんでバケツに入れた水の中に入れていく。このときに勢いよくコンロに水をかけてしまうと、大量に発生する水蒸気や跳ねた炭のかけらなどで火傷をしてしまう恐れがあるのでやってはいけない。実のところ水の沸点は百度であるが、水蒸気になるとそれ以上に温度が上がってしまう。実際に蒸気機関車は、水蒸気をさらに加熱した過熱水蒸気を使う事で出力を高めている。

 こうして処理した消し炭は乾かしておけば次回のバーベキューに使う事が出来る。このような消し炭は火がつきやすいので、火熾しの短縮にもつながるのだ。

「祐一さん。後片付けはどうですか?」

「はい、順調です」

 振り向いた先の光景に、祐一は思わず息をのんでしまう。そこには、花火を楽しむために浴衣に着替えた四人の姿があったからだ。

「素敵ですよ、秋子さん」

「まあ、こんなおばさんを褒めてもなにも出ませんよ」

 その言葉とは裏腹に、秋子は楽しそうな様子だ。

「祐一〜、真琴は?」

「ああ、似合ってる似合ってる」

「祐一くん、ボクは?」

「ああ、可愛い可愛い」

「祐一、わたしは?」

「綺麗だよ、名雪」

「……なんかボク達だけおざなりだね」

「あう〜……」

 基本は名雪SSだからある程度は仕方ないにしても、出番があるのだからもう少しスポットを当ててほしいと思うあゆと真琴であった。

 

「いくよ、真琴ちゃん」

「あう〜」

 あゆも真琴も手に花火を持って狭い庭をぐるぐると駆け回り、そのたびに色とりどりの花火の炎が二人の笑顔を染めていく。そんな二人の様子を、祐一は名雪と並んで縁側に腰掛けながら微笑ましく見守っていた。

「二人とも、あまりはしゃぎすぎてはいけませんよ」

 まるで子供のように。と、いうか、完全に子供そのままではしゃぎまわる二人の姿に、秋子は苦笑しながらも注意をする。こういうときは童心に帰って楽しむのが一番なのであるが、どうにも祐一はあの二人のはしゃぎっぷりの中に入っていける気がしない。庭が狭いというのも一つの原因かもしれないが、あそこまで子供っぽくなるのは無理な気がする。

 しかし、先程から見ていると、あゆと真琴はお互いに花火を向けあったりしていて、かなり危ない楽しみ方をしている。実のところ浴衣に使われている素材の綿や化繊は非常に燃えやすく、一度火がつくとあっという間に火ダルマとなってしまうのだ。特に浴衣は布地が薄いので、そういう傾向が強い。

 実際にそれで全身に大火傷を負い、死亡してしまった事故事例がある。花火をする際、バケツに水を用意しておくのは終わった花火をつけておくのも目的だが、そうした事故の際にいち早く消火をするためでもあるのだ。

 とはいえ、二人とも距離を置いて花火を向けあっているようだし、火の管理は秋子がしっかりやっているので当面の問題はなさそうだ。

「……やっぱり」

 そんなとき、名雪がポツリと呟いた。

「カメラとか用意しておけばよかったかな」

 家族五人で過ごした、思い出のために。

「別に、そんなもの必要ないだろ?」

「どうして?」

「忘れなければ、いつまでだって残るだろ? 心のアルバムにさ……」

「わ、祐一ってばくさいセリフ」

 折角決まったと思ったのに、あっさりと名雪に返されてしまって言葉を失う祐一であった。

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