第三章 雪と別れ、そして出会い

 

 雪人と始めた新生活は、秋子が望んでいた以上に幸せなものだった。

 雪人はよき夫であったし、秋子もよき妻であった。それは、お互いに家族に恵まれなかった二人がなによりも望んでいたのが、このささやかな生活であったからであり、お互いがなによりも相手のことを大切に思いあっていたからであった。二人は不器用ながらもこの幸せを満喫(まんきつ)していた。

「じゃあ、いってくるよ。秋子」

「いってらっしゃい。あなた……」

 いつも通りの日常。いつも通りの朝の風景。そのはずなのに、なぜか秋子は妙な胸騒ぎを感じていた。

「どうした?」

「あの……気をつけてくださいね……」

「それは俺の台詞だ」

 不安げな秋子の表情を吹き飛ばすように雪人は微笑みかけた。

「何しろお前はそそっかしいからな」

 不意に遠い目をする雪人。

「あれはそう……先週のことだったかな。お前がはじめて作ったジャム……」

「それは言わないでください」

 とたんに秋子は真っ赤な顔でうつむいた。

 確かにあれは失敗作であった。秋子は美味しくしようとして、いろいろな材料をブレンドした結果、出来上がったのがオレンジ色のジャムだった。

 しかし、出来上がったジャムは甘くなく、とにかく形容しがたい妙な味になってしまっていた。それはもちろんジャムと呼べるような代物ではなく、雪人がなにかの調味料と勘違いしてしまうような出来だったのである。

 その後すっかり消沈してしまった秋子に、雪人がかけた言葉がこうであった。

『そんなに悪い味じゃなかったから、また作ってくれ』

 そうして微笑みかける雪人の笑顔に、秋子は何度救われたかわからなかった。

「まあ、とにかくだ……」

 雪人は秋子の体をそっと抱き寄せると、優しく髪をなでた。

「そういう不安げな顔はしないでくれ、こっちまで心配になるじゃないか」

「雪人さん……」

「でもまあ、俺にもし万一のことがあって、お前を一人ぼっちにするようなことがあっても、秋子には笑い続けていて欲しいんだ……」

 それは俺のわがままかな、と雪人は小さく(つぶや)いた。

 

 そして、雪人はいつものように出かけていった。それは、いつもと変わらない日常の風景。

 これからもずっと続くはずの日常。

 しかし、それは突然終わりを告げた。

 

 昼過ぎにかかってきた電話。それは姉からのものだったが、その内容に秋子は愕然(がくぜん)とした。

 とるものもとりあえず駆けつけた病院で秋子を出迎えたのは、青ざめた表情の身重の姉だった。

 未悠は、無言で秋子を死体安置室へと促した。

 重い鉄の扉を開けて薄暗い安置室の中に入ると、白い布をかぶって寝台に横たわる人物と、憔悴(しょうすい)しきった顔で(かたわ)らの椅子に座る大祐の姿があった。

 秋子は信じたくはなかった。でも、顔にかぶせられた白い布をめくると、その下にあるのは確かに愛する夫、雪人の顔だ。

「……きれいな顔、してるだろ……」

 大祐の声は静かだった。それだけに、秋子の耳には重く響く。

「死んでるなんて……うそみたいだろ……」

 雪人の死に顔は安らかで、声をかければ今にも目を覚ましそうなくらいだ。

「ほんのちょっと……打ち所が悪かっただけで……」

 大祐の声に、ほんの少しだけ嗚咽が混じった。

「もうそいつ……動かないんだぜ……」

 

 雪人の死因は交通事故。道で鳴いていた子猫を助けようとして車にはねられたのだ。その子猫は無事だったのだが、事故のすぐ後に姿を消していた。

 雪人の葬儀の最中に、秋子は涙を流さなかった。葬儀に参列した人の中には秋子の態度に、あからさまな不快の意思を示すものもいたが、未悠にはわかる。秋子はあまりにも深すぎる悲しみのために、泣くことすらできなくなってしまっていることに。

 雪人の遺骨は街の納骨堂におさめられることになり、秋子の手元には写真一枚残ることはなく、ただ思い出だけが残されるだけだった。

 その日以来秋子は部屋にこもるようになった。厚くカーテンを引き、秋子は昼間でも暗い部屋の中にいた。

 

 夜が明けるのが怖かった。

 雪人が、自分の愛する人がいない日が来るのが怖かった。

 一人ぼっちの朝を迎えるのが怖かった。

 秋子はこうして暗い部屋にいれば、その日が来ないと思い込んでいた。

 

 そんな秋子を心配して未悠は秋子のそばにい続けたが、あたかも心を閉ざすように、秋子は部屋から出ることはなかった。

 ある日のことだった。その日はとても月がきれいな夜だ。

 カーテンの隙間から差し込んでくる月の光に導かれるように、秋子は机の引き出しからカッターナイフを取り出す。

 押し出された刃が、青白い光を浴びて銀色に輝く。秋子は躊躇(ちゅうちょ)することなく、その切っ先を手首に当てた。

 

 丁度そのころ、未悠は食事の支度をして秋子の部屋の前に来ていた。未悠には秋子の深い悲しみが良くわかる。

 自分の愛する人と別れる悲しみ。それがわかるからこそ、未悠は秋子のそばにい続けたのだ。

 あの日以来秋子は、食事も()らずに部屋にこもり続けている。未悠は扉をノックした。

「秋子?」

 しかし、中からの反応はない。不審に思った未悠が扉を開けると、その中の光景に大声をあげた。

「秋子っ!」

 あわてて未悠は秋子の両腕を押さえつけた。

「馬鹿なことするんじゃないの、秋子」

 未悠は秋子の手からカッターナイフを取り上げた。

「何するの姉さん。わたしを雪人さんのところへ行かせてっ!」

「馬鹿っ!」

 未悠の手からカッターナイフを取り返そうとした秋子の頬に、未悠の平手が炸裂した。

「秋子の馬鹿……」

「姉さん……」

 たたかれた部分から、秋子の頬にじわりと熱いものが広がってくる。

「そんなことをして、誰が喜ぶって言うの?」

 未悠の声は震えていた。それは秋子がはじめて聞く声だ。

「あの人が、喜んでくれるとでも言うの?」

「………………」

 いつでも気丈に秋子を支え続けてきた未悠の声が、今は涙に震えている。姉の目に光る涙を見たとき、秋子は言葉を失っていた。

「お願いよ、秋子。あなたまでいなくならないで……」

 未悠はそっと秋子の体を抱きしめた。その確かなぬくもりに包まれた秋子の目から、大粒の涙が溢れ出してくる。

「ごめんなさい……」

 やっと秋子は、素直に涙を流すことができた。雪人を失ったあの日以来、止まっていた時間が動き出したのだ。

「ごめんなさい姉さん……」

 二人は抱き合ったまま、一晩中泣き続けた。

 

 そして、夜が明けた。

 こうして向かえる朝の光はまぶしく、秋子は少しくじけそうになったが、それでも雪人がいなくなってしまったことを、前向きに受け止められるようになっていた。

「おはよう、秋子」

「おはようございます、姉さん」

 キッチンではすでに朝食の用意が整っており、未悠が明るく秋子を迎えていた。

「姉さんにはすっかり迷惑をかけちゃったみたいで、本当にごめんなさいね」

「いいのよ、気にしないで」

「それに、大祐さんにも……」

「うちの人のことは気にしないでいいのよ」

 大祐の話題が出たとたんに、未悠の態度が一変した。

「何しろ出張出張で家に寄り付きもしないんだから」

「身重の姉さんを放ったらかして?」

「そうなのよ」

 そして、どちらからともなく笑い出す二人。秋子はこうして笑うのは、なんだか久しぶりのような気がした。

 それは雪人を失って以来の、幸せな風景だからだ。

「……!」

 だが、その幸せの中で、秋子は不意に違和感に襲われた。

「どうしたの? 秋子……」

 突然秋子は口元を押さえてうずくまる秋子。身体の奥からこみ上げてくる不快感を、秋子はシンクの中に吐き出した。

「うくっ、けほん」

 はあ、はあと、荒く肩で息をする秋子の肩に、未悠は優しく手を置いて微笑んだ。

「秋子、あなたもしかして……」

 

 その日の病院での検査で、秋子は自分が雪人の子を宿していることがわかった。

 ちゃんと雪人は、自分が生きた証を残していってくれたのだ。そっと自分のお腹に手を当てた秋子は、自然と微笑んでいた。

 それが心の奥からこぼれてくる笑顔であると気がつくのに、それほど時間はかからなかった。

 そのことを自覚した秋子は、背中まで届く長い髪を切った。それはけじめをつけるためでもあったし、なによりも新しい自分になるためでもあった。

 そして、月日は流れ、再びこの街が雪に包まれるころ、秋子は女の子を出産した。

 

「おめでとう、秋子。女の子なんて、ちょっといいわね」

「ありがとう姉さん。でも、姉さんのところは男の子でしょ? 名前は祐一さん」

 未悠の腕には、しっかりと赤ん坊が抱えられていた。母親の腕の中で、祐一は安らかな寝息を立てていた。

「本当は『悠一』にしようと思ったんだけど……」

 未悠はため息をついた。

「うちの人が『お前の名前だけ使うのは不公平だ』って言ってすねちゃってね。だから、あの人の名前も入れて『祐一』にしたのよ。でも、そのおかげでこの子、わたしたち二人分の名前なんだけどね」

 未悠は優しく祐一に微笑みかけた。このころから大祐の仕事が忙しくなり、それを未悠も手伝うことがあったため、祐一には一人で寂しい思いをさせてしまうかもしれない。だから、せめて名前だけでも一緒にいてあげたい。そんな思いが込められた名前だった。

「それで、秋子。その子の名前はどうするの?」

「そうね……」

 秋子はそっと赤ん坊を抱き上げた。

 窓の外を見ると雪が降っていた。今はもういない、あの人が好きだと言っていた雪が、思い出の中を白く埋め尽くすように降り積もっていた。

「この子の名前は……『名雪』」

 この子は父親を知らない。思い出も何もない。だからせめて、名前だけでも父親と一緒にいさせてあげたい。

 秋子は、そんな思いを込めて名づけた。

「そう、いい名前ね」

 未悠は優しく名雪に微笑みかけた。

「これからもよろしくね、名雪ちゃん」

 

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