最終章 真なる敵の深奥へ
特査へと昇格し、電脳虚数空間への出撃を翌日に控えた夜。考える事が多すぎて、眠れずに過ごしていた祐一の部屋に誰かが入ってきた。
「眠れないんだ、祐一……」
「名雪か……どうした?」
夜中に自分の部屋に入ってきた名雪に、どうした、と聞いてから祐一は失敗したと思った。ここ数日祐一の様子がおかしいことを、名雪はずっと心配していたからだ。流石に祐一も、なんでもない、の一言でごまかせるのも限界になっていた。
「なんでもないなら……いいんだけど……」
名雪にはそれすらもお見通しだった。
「名雪……俺は……」
言いかけてから祐一は自分が何を言おうとしていたのかを考えた。そのためらいの時間は沈黙となって二人の間を支配した。
「あ……あのな、名雪……」
「ごめんね。わたし、祐一に迷惑かけちゃってるよね……」
そう言うと名雪は祐一に背を向け、部屋を出て行こうとした。
「名雪」
祐一は思わず背後から名雪の体を抱きしめていた。名雪の体がかすかに震えるのが伝わってくる。
「ゆ……祐一?」
いきなり抱きしめられて、名雪は動揺した。しかし、落ち着いてみると、祐一の体が震えていることを感じた。
「ふ……震えてるよ、祐一……」
「怖いんだ……」
今祐一の肩には、世界の命運がかかっている。祐一の働き如何では、全ての事象が崩壊してしまう。それは世界の消滅を意味し、名雪を失うことを意味していた。自分が失われるならまだよかった。だが、名雪を失うことが怖かった。事態がここに及んでやっと、祐一は自分の気持ちに気がついたのである。
「名雪、俺はお前のことが好きだ。もちろんいとこ同士とかそういうのじゃなくて、一人の女の子として……」
祐一の腕の中で、名雪は黙ってそれを聞いていた。やがてゆっくりと祐一に向き直ると、そっとキスをした。
「名雪……?」
「これがわたしの気持ち……だよ……」
言ってから名雪は祐一から顔を背け、顔を赤くした。
「わたしも……祐一のことが好き……みたいだから……」
今祐一の腕の中にいる少女は、幼馴染から大切な少女へと変わった。そして、名雪を守るためなら、祐一はどんな困難をも乗り越えていけそうな気がした。
「今夜はお前を離したくない……いいか?」
祐一の腕の中で、名雪は小さくうなずいた。
お互いの気持ちを確かめ合った後祐一は、隣で安らかな寝息を立てている名雪の髪をそっとなでていた。
祐一が地球や月に転送されていった後も、きっと名雪は心配してくれたのだろう。そう思うと、たまらないいとおしさがこみ上げてきた。
不思議と祐一は、世界の命運などどうでもよくなってきた。名雪の笑顔を守ることに比べたら、取るに足らない小さなことのように思えてきたのだ。
久しぶりに祐一はぐっすり眠れそうな気がした。名雪の温もりを感じながら目を閉じると、自然に眠りに引き込まれていった。
こうして長い夜は終わりを告げ、祐一が電脳虚数空間へ向けて出撃するときがやってきた。
「おはよう、相沢くん」
「おはよう、香里。相変わらず元気そうだな」
「ありがと。そう言う相沢くんも今日はすっきりとした顔だわ」
「そうか?」
確かにここ数日の祐一は、世界の命運というプレッシャーにつぶされがちであった。だが、名雪との一夜を経た後は、名雪の幸せだけを考えていた。
名雪の幸せを守るということは、世界の平和を守ることである。今までは上からの命令で戦ってきた祐一だったが、今回は自分の意思で戦うことを決意したのだ。
祐一自身は気がついていなかったが、これこそが真のMARZの条件だったのだ。
「名雪と何かあったの?」
鋭い香里の突っ込みに、祐一は一瞬絶句した。祐一の態度は不審者そのものであったが、香里はあえて追及せずに微笑んだ。
「そ……そんなことより、なんだこのVRは。ホワイトナイトでも来てるのか?」
香里が忙しく整備をする、白いテムジンを見て祐一は言った。それは白虹騎士団が保有する、テムジン747だった。こうして改めて見上げてみると、マインドブースターに装備されたグリンプスタビライザーが翼のように広がっていて、天使のようにも見える。
「いや、これは貴官のVRだ」
突然背後からかかった声に、祐一はあわてて振り向いた。そこには銀縁のメガネをかけた若い男が立っていた。
「ホワイトナイトの久瀬さんよ」
香里がすかさず紹介する。
「貴官には月で世話になった。貴官の助力がなければ、我が任務の達成は困難を極めたことだろう」
「それはこっちも同じだ。ホワイトナイトがいなけりゃ、俺はとっくの昔にお陀仏だ」
二人は熱く握手をかわした。
「でも、なんでこいつを?」
「貴官はムーンゲートにおいて、自身のシャドウを打ち倒している。それにより貴官は白虹の騎士として最低限の条件を満たしたことになる。それに、MARZを統括する倉田さんは、白虹騎士団の統括者でもある。そしてこれが、我々のできる最大限の協力なのだ」
MARZの真の目的であるダイモンの駆逐。その遂行のために地球圏でも最強のVRを白虹騎士団が提供する。MARZの開発スタッフが超兵器とまで言った747Jを、さらに強化した祐一のテムジン747J/Vはいわゆる極超兵器であるが、全てを凌駕する白虹騎士団のテムジン747は文字通りの最終兵器である。ある意味においては、この作戦に失敗は許されないということだ。
「ダイモンの繰り出す罠を、貴官はことごとく粉砕して見せた。だからというわけではないが、僕は貴官が期待に沿う働きをしてくれるものと信じている」
コックピットに乗り込んだ祐一は、早速ホワイトナイトを起動させた。
「こいつは……」
「どう? 相沢くん」
チェックリストを片手に香里が訊いた
「悪くないというか……えらく馴染みやすい」
「よかった……」
香里の表情に安堵の色が浮かんだ。ホワイトナイトの強さの秘訣は、機体の性能だけでなく、パイロットの個性に合わせた調整が施されることによる、相性の良さに由来する部分が大きい。
祐一のホワイトナイトは、これまで地球や月を転戦してきたデータが全て反映されており、完全に祐一専用の調整が施されていた。その意味では地球圏髄一のVRであるといっても過言ではないだろう。
そして、祐一はこのVRにこめられた皆の思いを感じ取っていた。
MARZが所有する強襲母艦『ディークレフスター』の定位リバースコンバートにより、祐一は電脳虚数空間内に潜伏するダイモンの事象崩壊要塞へ転送されることとなった。
『電脳虚数空間に突入した後の相互連絡は不可能となりますが、安心してください。あちらではタングラムが祐一さんを導いてくれます』
「タングラムが?」
『タングラムが電脳虚数空間に放逐される前に、佐祐理はタングラムに人格を与えることに成功しました。これはタングラムが悪用されないための自律判断プログラムなのですが、結果としてダイモンによる悪用も封じ込めることになりました』
「なるほどね」
『彼女の名前はあゆ。ですが彼女もダイモンによる侵食により、もはや風前の灯火でしょう。手遅れになる前に、早く救い出してあげてください』
「了解した」
『これから祐一さんの行く手には、数多くの困難が待ち受けていることでしょう。ですが、真のMARZである祐一さんの強い意志と機知と技能があれば、必ずや困難を乗り越えてくれると佐祐理は信じています』
「わかった、運命を我が手に」
『運命を、我が手に……』
そうして祐一は、はるかなる電脳虚数空間に向けて射出された。
転送中祐一はふと思った。悪の大王ダイモンに、囚われた姫君あゆを救うべく、悪の要塞に乗り込む正義の白い騎士。なんとなく興行的なイベントのにおいを感じる祐一であった。
最初に四基の砲台に守られたシャッターを破壊し、祐一は要塞内部に突入した。
「まずは『処女膜』を突破だな」
テムジンにインストールされた要塞内のデータを見てそう呟いた祐一は、要塞内の回廊『膣』への侵入を開始した。回廊内には防衛機構の小型浮遊要塞『ミトン』が配備されていた。これはミルトンの小型版とも言える機動要塞で、本体の下部から障害物を突き抜けてくる巨大な誘導弾を発射してきた。だが、ミルトンと比較しても防御力は低く、祐一は手早く始末して先に進み、ダメージフロアやバリアなどのトラップを回避して、第一目標である『子宮口』へと到達した。
(ようこそ……ボクの中に……。祐一くんはボクを……助けに来てくれたんだよね……)
子宮口付近に配備されていたダイモン・オーブと、機動要塞のダイモン・アームを倒し、祐一は次の目標である『子宮』内部への侵入を開始した。
(感じるよ……祐一くんの鼓動を。ボク、祐一くんの波動を感じる……。嬉しいよ、祐一くん……)
「あゆ……」
(でも、気をつけて……要塞内の防衛システムが、危険度を最大にして祐一くんのことを排除しようとしているんだよ。ダイモンたちは、本気だよ……)
子宮内部に侵入した祐一を、最初に出迎えたのは二基のジグラットだった。
『本気だよ……我々ダイモンは……』
攻撃パターンは普通のジグラットと変わらないものの、二基が同時に攻撃をしてくるため、祐一は苦戦を強いられた。ここはとにかく一基ずつ確実にしとめていく以外に突破する方法はなかった。
(この先に、大規模な防衛拠点があるけど……ワームには深入りしないで、真っ直ぐ来て……。ボクの中心に向かって……迷わず突き進んで……)
子宮内部の防衛システムの突破は熾烈を極めた。何しろ下に落ちるとダメージを受けてしまうため、祐一は細い回廊上での戦闘を余儀なくされていた。
途中に配備されているダイモン・ワームにはダイモン・オーブを生成する能力があるため、際限なく数を増やしていく敵に、祐一は予想以上の苦戦を強いられてしまった。
無限に増殖するダイモン・オーブを相手に祐一は苦戦したが、祐一はなんとしてもここを突破し、次の目標である『卵管』に到達しなくてはいけなかった。
だが、ここをふさぐように巨大砲『リンガ・ストーク』が設置されていた。
リンガ・ストークは固定式の巨大砲で、強力なレーザーを発射してくる以外は無害なものだったが、問題はダイモン・オーブだった。狭い回廊上のいたるところで、ダイモン・オーブは次々に湧き出してくるのだ。祐一はダイモン・オーブを撃退しながらリンガ・ストークを攻撃し、ついに破壊に成功した。
(ごめんね、祐一くん。ボク……君に言えなかったことがあるんだよ……。ボクはここに囚われていて……事象崩壊要塞と一体化しているんだ……。だから、祐一くんの行く手を阻むダイモンの兵器たちは……ボク自身でもあるんだよ……)
「なんだって?」
か細い啜り泣きが聞こえてくる。
(ボク……祐一くんに助けを求めていながら……祐一くんのことを傷つけちゃうんだ。一体、どうしたら……)
『さあ、MARZよ、貴様の墓地を見繕ってやった。感謝の光悦と共に、消滅せよっ!』
卵管内部で祐一を待ち受けていたのは、八超拠点防衛要塞ストラトスであった。事象崩壊要塞の最深部を防衛する重機動要塞は、かつてTSCドランメンがアースクリスタルを束縛するために構築した幻像結晶拘束体『ブラッドス』に酷似していた。
ブラッドスと同様に八基のVコンバーターで駆動するストラトスの攻撃は熾烈だった。移動速度の速いディスクや、一発の威力は低いものの連射が可能なレーザー、スタン効果の高い四角いレーザーなど、多彩な攻撃を仕掛けてくる。また、ストラトスには二つのバリエーションがあり、露出した大型のコアから太いレーザーを打ち出すAタイプと、小型のコアから細いレーザーを発射して回転するBタイプとがあった。
それが一基ずつ出現するなら破壊するのも楽でいいが、二基が同時に出現するのには閉口した。何しろ直前までどちらが攻撃してくるかわからないからである。しかも一基が攻撃中はもう一基が援護に回るため、祐一は苦戦を強いられた。
『待たせたなっ! 相沢』
そのとき、北川のハッターが突如として参戦した。
『あの時お前は俺の命までは奪わなかったからな。だから、その恩返しだ』
「サンキュー、北川」
『ファイト〜ッ!』
北川の協力を得て、祐一はついに二基のストラトスの破壊に成功した。
『さあいけ、相沢。ここから先は、お前が主役だ』
「北川」
男同士のあつい友情に、祐一は感謝した。
『そして、自分だけのサムシングワンダフルを手に入れるんだ』
北川に見送られ、祐一はついに要塞の最深部『卵巣』へと足を踏み入れた。
(もうすぐだよ、祐一くん……。祐一くんと一緒に、ボク……)
『運命は、あるべきところへ……』
(君たち人類は……破滅の道を、選んでしまった……)
『覚悟するがいい、まもなく事象崩壊要塞は稼働する』
(ごめんね、祐一くん……。ボク……)
『今の君に、こんな試練を与えてしまうことを……』
悪意に満ちた哄笑とか細い啜り泣きが交互に聞こえ、やがてはそれじょじょにではあるが、一つに合わさっていった。そして、祐一が目指す目標はこの先、要塞の最深部に存在する。
「待ってろよ、あゆ。今助けてやるからな」
ダイモンの罠にはまり、祐一は地球や月に転送されていった。それでも祐一が無事だったのは、もしかするとあゆのおかげなのかもしれない。だから今度は、祐一があゆを助ける番なのだ。
事象崩壊要塞の最深部、要塞の中枢部でタングラム、あゆはダイモンと一体化していた。
『お前だってわかっているんだろう? そんな姿を見られたからには……生きて返すわけにはいかないぞ……』
(うぐぅ〜っ!)
タングラムを囲む六基のRSTユニットがタングラムを拘束し、その能力を強制的に発動させた。
超時空因果律制御装置タングラム。全ての運命そのものに干渉し、未来を自在に変更することが可能なシステム。本来は対ダイモンの切り札として機能するはずの彼女が、いまやダイモンの事象崩壊要塞と一体化して祐一に攻撃を加えてくるというのは、文字通りの運命の皮肉であろう。
かつてのオラトリオ・タングラム戦役においても多くのVRパイロットが彼女と接触し、あるものは二度と帰ることはなかった。
そのタングラムが敵意をむき出しにして祐一に襲い掛かってくる。祐一はまずタングラムに攻撃を集中して沈黙させると、タングラムを拘束するRSTユニットの破壊に向かった。
(うぐぅっ!)
タングラムが悲鳴を上げると同時に、地雷のようなエネルギー弾が放たれる。祐一がテムジンをジャンプさせると、上下が反転して天井部分に降り立った。
そこでも祐一はタングラムを沈黙させ、RSTユニットを破壊する。
この繰り返しにより、祐一はついにタングラムの解放に成功した。
まばゆい光があたりを包み込んだ。
(今、運命が解き放たれたよ……。タングラムという名の運命が、祐一くんの力によってね……)
「そうか……」
(嬉しいよ、祐一くん……)
光の中で、翼を持った少女が微笑んでいた。
(でも、なんていう宿命なのかな……。人は電脳暦という虚構の安寧にふけるあまり、現実を忘れて内外に迫る危機から目をそむけているんだよ。それは破滅と隣り合わせのつかの間の幻、ただの夢なのにね……)
「あゆ……」
(夢が終わると……また、戦いが始まるよ。もう、敵はダイモンだけじゃないんだよ……)
「そうなのか?」
(流れ出した運命は、もう誰にも止められないよ。それは祐一くんを容赦なく激流のふちに引きずり込むよ……)
「むごいな、それは……」
(そうだね、むごいよ。でもね、それは祐一くんが選んだことなんだよ)
「なんだって?」
(だからボクは、そんな祐一くんの勇気に寄り添いたい……)
「あゆ……」
サムシングワンダフル。北川が言った言葉だが、なんとなく祐一はその意味を理解したような気がした。
(終わる世界を祐一くんのために……。始まる世界を祐一くんのために……。運命を、人生を愛してあげてね……)
「あゆ?」
不意に祐一はあゆの声を遠くに感じた。
「あゆ〜っ!」
祐一の意識は、そこで闇に閉ざされた。
(ダイモン……電脳虚数空間の姿無き妄執……)
あゆの目は、しっかり闇を見据えていた。ダイモン、電脳虚数空間に潜む修羅の妄執。人類が相手にするには、あまりにも強大すぎる敵。
(ボクはあゆ。タングラムに宿る心……)
あゆの体は光に変わり、あまねく闇を照らし始めた。
(君たちを鎮めるために……ボクはずっと、謳い続けてあげる……。これがボクの……サムシングワンダフル……)
超時空因果律制御装置タングラム。それは全ての運命に干渉し、未来を自在に変更することが可能なシステム。
(ボクの……願いは……)
タングラムはその本来の使命を果たすべく活動を開始した。
そして火星宙域では、突如として飛来した謎のクリスタルにより、テラフォーミングが終了した。
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